海軍大尉 小灘利春

 

三断の記

平成 6年 3月 なにわ会ニュース74号

 

「酒と煙草と女、この三つは勤務の差し障りになる。いずれ長い人生ではない。諸士よろしく生涯この三つを断て」

練習艦八雲の主任指導官村井喜一少佐は前期候補生一同を前に、厳かに訓示された。

承って小生、尤もだと思った。

意志薄弱の気味がある自分を鍛えるためにも断固、生ある限りこの三つには触れないぞと堅く心に誓った。

昭和十八年十一月のことである。

 

上京、拝謁のあと小生は重巡足柄乗組となり、空母飛鷹に便乗してマラッカ海峡で着任した。

当時足柄は遊覧艦隊と陰口をきかれた南西方面第十六戦隊の旗艦で、ジャワ、スマトラ、マレー、ビルマなどを巡航し、

小生は緑の王道楽土を楽しんでいた。

煙草は配給があったが見向きもしなかった。

女っ気の方は昼間しか上陸しない候補生では関係無し。

だが酒のほうは、艦内で宴会があるとき可愛い分隊員が懸命に捧げてくれる盃を「俺は飲まんことにしているから」で

拒絶する訳には行かない。

これで、酒は駄目になったが、自分から飲むようなことはしなかった。

勤務は初めは測的指揮官、そのあと少尉の分際で主砲発令所長。

重巡では第三分隊長の配置であるが、南方ならまだしも陸奥湾に廻ったので上陸の機会も無い。

 

十九年八月潜水学校第十二期普通科学生を発令された。

しかし開講の前日、第一特別基地隊付に変わり、丁度創設された山口県大津島の基地で回天搭乗員を命ぜられた。

着任直後、一特基大津島分遣隊指揮官板倉光馬少佐から

「ここにいる搭乗員は総員、これより一カ月後に敵艦隊めがけ突入する」 と申し渡され、我々はその気になった。

自分が生きているのはあと何日か、食事ができるのはあと何回かな、と時折胸の中で数えながら訓練に励む日々に入ったが、

この分なら残る二つの誓いを守り通すことは簡単に達成出来そうである。

軍機部隊なので上陸禁止。

出撃があると前夜か前々夜、対岸の徳山に機動艇で押し渡り、料亭「松政」で壮行会をキッチリ二時間だけやって、

さっと帰ってくる。

出撃搭乗員だけは泊まって朝帰りである。

二十年に入ると日曜日に上陸できるようにはなったが訓練に休みは無いので我々は上陸する暇も無い。

回天の生産が大幅に遅れたため、二十年五月になってやっと小生ら、潜水艦ではなく陸上から発進する基地回天隊の

第二回天隊として八丈島へ出撃したが、壮行会でも徳山に泊まらず、結局憧れの大和撫子には近づく機会すら無かった。

ただ、松政の女中頭「おしげさん」 に我々搭乗員は実に献身的な世話をして貰ったが母親代わりの様なもの。

酒は大津島の士官室では出なかったと思う。

小生が出撃した後の頃は士官は各自で飲んでいたという話もあるが、小生には飲んだような記憶が全く無い。

回天隊では毎晩、その日の全訓練について猛烈な研究会がある。

夕食のとき飲んで、酔っていては真剣な論議ができる筈もないではないか。

 

或る日、サントリー・ウイスキーの角瓶が二本小生の手許に届いた。

手紙は付いていなかったが、佐伯防備隊にいた父が、どうして居場所が判ったのか送って寄越したものであった。

瓶を開けてキャップに受け、ロを着けてみるとピリッときて到底飲めたものではない。

こんな代物、まともな人間の口にするものではない! と思って、そのまま部屋の片隅に立てておいた。

しかし瓶の琥珀色の液体は少しずつ減ってゆき、とうとう空になって従兵が片付けた。

同じ部屋のクラスメートが飲んでくれたのだな、と思い気にも止めなかった。

戦後になって甲飛十三期出身下士官の回天搭乗員から申告があり、小生が昼間は訓練に出て士官宿舎に居ないことを

承知の上で、分隊長に用事があるような顔をして部屋にやって来て角瓶のウイスキーを飲んでいたという。

「分隊長のウイスキーは旨かったです」と感謝されて呆気に取られた。

必死必殺の人間魚雷部隊ながら、そんな茶目っ気があるおおらかな所でもあったが、この時期三つの誓いは大体守り抜いた。

我ながら神聖と思える生活ではあった。

 

八丈島に着いて早速戦闘の準備と増備回天の基地設定に努めた。

日本三大要塞の一つと呼ばれたこの島は徹底した戦備を施していた。硫黄島に敵が来たとき米海軍は空母一隻を

八丈攻撃に向かわせた。

しかし発進した艦載機は只の一機も帰って来なかった。

以来米海軍はこの島には何かあると考え、八丈島を勝手に攻撃してはならないという命令を出したと言う。

これは戦後判った事。

敵艦隊が来て艦砲射撃を始めるときが我々の出番である。

警備隊司令の中川寿雄大佐は「回天が戦艦をやっつけて呉れれば八丈を守り抜いてみせる」と日頃言っておられた。

司令は「同じ死ぬなら、旨いことをしてから死ね」と言われて、自ら煙草の火を付けて小生の目の前に突き出された。

「吸わないことにしておりますので」 と、とうとう断ってしまい申し訳ないことをしたが、御好意は実に有り難かった。

しかし 「女」 の方は只のひとことも言われなかった。

既に八丈の若い女性は残らず内地に疎開しており、飲食店も空っぽ。

たとえ期待したって無理であった。

補給が八丈までは何とかついていたので、食料も煙草も不自由はないが、勿論煙草は吸わず、陸軍の兵士が時々

貰いに来るので渡していた。

有名な島の焼酎も戦中は口にしなかった。

 

とうとう戦闘に人らぬまま終戦を迎え、二十年も十月の末米国の艦隊が八丈沖に姿を現した。

武装解除の最初は我々の回天の爆破であった。

ピカピカの新鋭重巡クインシーの艦長以下多数の士官が見物にやって来たが、態度は丁重で好意的であった。

副長が親切にしてくれたので、日本酒を一本進呈しようと言ったところ、丁寧に押しとどめ「厚意は有り難いが、

アメリカ海軍は艦内では酒は一切飲みません。

日本海軍は軍艦で酒を飲んだから負けました」と言われてしまった。

「そうか。飲まなきゃ良かったんだ。やっぱり」と、改めて村井指導官のお言葉を思い浮かべた。

尤も、別の士官は貰った一1升瓶をジャンパーにくるんで喜んで艦に帰ったので、色々あるわいと思った。

米海軍の士官たちが煙草をしきりに勧めてくれたが、小生は断りつづけた。「どうして吸わないのか」と不思議がって聞くので、

「吸わないと自分に誓ったがゆえに吸わない」と答えたが納得しない。

語学将校が困って「本人は健康のため吸わぬと申しておる」と誤魔化していた。

彼等は女性についてもざっくばらんである。「レクリエーションは何をやっているか?」と聞くので、

その効能は判らないでもないが、こちらは月々火水木金々であるから遊ぶことなど考える訳がないと腹の中で思ったので、

「何もない」と答えたら「芸者がいるだろう」と聞く。

士官の一人が深刻な顔をして「売春は人類最古の職業ですからねえ」と言う。

「日本の芸者はそんなものではない」と反撃しようとして、ふと

「女性は俺にとっては真善美の象徴だが、それだけの存在ではないのかなあ?」と心配になって来て、黙ってしまった。

復員が始まると、その便で島の人々が続々と疎開から帰ってきた。

相当な美人たちがその中にいたがもう遅い。

海軍最後の復員船で小生は引き揚げ、海軍省に出頭した。

 

戦後京都大学に入り、卒業して南氷洋捕鯨に二度参加した。

捕鯨母船と冷凍工船に乗ったが、当時の花形産業であり航海も六ヵ月と長いので、青い缶入りのピースを大量に配給して呉れた。

小生吸いはしないが人並みの配給を受け取り、全部父に送った。

別にサントリー角瓶のお返しの積もりではなかったが、海上勤務の間は続けた。

酒は飲まなかった、と言うよりも慣れず、ちょっと飲んでも忽ち酔っぱらった。

陸上勤務になって、今では吸わなくて当たり前であるが当時の禁煙は珍しく、煙草も酒と同様色々と誘惑があった。

話が行き詰まって、こんな時タバコがあれば転換できるのにと思うこともしばしばであったが抑えきった。

女性の方は、結婚したので此の問題は打ち切り。

酒は仕事の都合もあり飲まぬ訳には行かず、いつの間にか宴会のときは最後まで残るのが癖になったし、

晩酌はやらぬ日が無くなった。

 

三つの誓いの内、二つはかくして消えてしまったが、残る一つタバコだけは村井指導官の御訓示通りに何としてでもと思って

守り抜き、一度もロを着けることなく今まで抑え込んできた。

このほど、遂にかの村井喜一指導官にお会いする機会を得た。

小生前に進み出て

「八雲ではお世話になりました。その時のご指示通り三つを断ちまして、今はタバコだけですが手を付けずに参りました」と

申し上げた。

すると、村井指導官は「そんなこと言ったっけ?」というお顔をされて御返事が無く、そのまま横を向いて行ってしまわれた。

小生長年の張りが一気に抜けて膝からがくんと崩れ落ちてしまった。

酒でも何でも、「TOTARSUMCONSTANT」という論理からは、小生はひょっとして残弾多数と言うことになるかも知れないが、

これからの人生でこの残弾まだ使えるであろうか。

いずれにせよ、タバコだけはついでにこのまま触れること無く終える積もりである。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/11/04