海軍大尉 小灘利春

 

回天帰る

昭和54年10月 小灘利春

 

戦後既に三十四年地上にその姿を見ることなく、遂に幻の兵器とされていた回天が思いがけぬ縁によって出現し、

紆余曲折のすえ日本に戻って来た。

回天は径六一糎の九三式魚雷を直径一米の胴体で包み、これにもう一本分の第二空気(純酸素)気蓄若を載せ、

頭部、九三魚雷三本分以上の一、五五〇キロの炸薬を詰めた、文字どおりの人間魚雷であった。

全長一四・七五米、重量は八・三トソである。

一五九基の回天が昭和十九年十一月以降延べ三五隻の潜水艦の甲板上に搭載されて出撃し、そのうち八〇基が

敵艦めがけて発進、もしくは母艦とともに喪われて、搭乗員もろとも還らなかった。

陸上にも多数配傭されたが、そのうち沖縄に向った第一回天隊(隊長河合不死男)の八基は途中一八号輸送艦とともに

行方を絶った。

回天の総生産数は約四二〇基と言われる。

終戦となって米軍は厳格な指示を発し、回天は調練基地、工場また実戦配傭についていた陸上基地とも問わず一基残らず

海中投棄または爆破処分されてしまった。

 

戦後の混乱を経て昭和三十七年におよび回天顕彰会が有志によって設立され、これとともに搭乗員のみの連絡機関として

回天会が発足し、小生が会長に推されて大津島の回天記念館建設など顕彰会の事業を支援するとともに、

顕彰の一環として回天の実物を世に遺したいと願って回天の行方を追いはじめた。

各基地の処分状況の情報をとり、搭乗員相互で連絡しあって調査、確認を続けた。

しかしながら朝鮮動乱の頃屑鉄価格が高騰し、現地の人々が引揚げ可能なものはすべて引揚げてスクラップにしてしまっていた。

昭和四十年八丈島の洞窟に埋めた回天を旧隊員と共に掘出しに行ったが、なにわ会誌四号の記事のように、

掘れども掘れども姿は無かった。

別府湾の投棄地点を掃海し、設標した上で深海探査艇に潜って貰ったときも徒労に終った。

松山のものは遊園地用の乗物であった。

調査は現在も続けており、期友から助言を貰ったこともある。

一方、回天乃至海軍とは無関係の団体までが大津島近辺で潜水夫を入れて捜索しているが、引揚げ可能なものが

残存しているものか、今もって確認するに至っていない。

新聞、雑誌が『これが回天だ』と報じたものはいくつか国内にある。

京都の嵐山美術館に陳列してあるものは、ハワイの街頭にあった座席のある魚雷を某航空会社々員が私費を投じて

日本へ運んだもので、その気持にはわれわれ感謝しているが、旧式の小型魚雷に手を加えた正体不明のしろものである。

江田島にあるものも、各地で展覧に供せられているが、どこかの現地部隊で試作したものらしく、

これも全く使いものになるとは思えない。

徳山沖合大津島の回天記念館の庭には東映が鶴田浩二、松方弘樹主演で映画『ああ回天特別攻撃隊』を昭和四十三年に

製作したときの模型が置いてあって、よく出来てはいるが寸法が小さい。

靖国神社の遺品館玄関内にあるものは回天四型の胴体の一部分である。

 

そんな折、ハワイの米国陸軍博物館から靖国神社へ一通の手紙が届いた。

「パナマに潜入した回天を保管している。攻撃を受けたためか尾部は無くなっているが、それ以外は外形は完全である。

若し希望するなら永久貸与してもよい」とあった。

靖国神社からわれわわに相談があったが、回天かパナマを攻撃した事実は無いし、その時期も昭和十六年開戦当時とある。

おまけに寸法もかなり違っている。

果して回天なのかどうか極めて疑わしい。

そこで経歴、要目、写真など明細の通知を求めたところ、送られて来た写真は回天には違いないが明らかに大型の四型であった。

『実戦に使われなかった四型なんか値打がないし断わってしまえ』と、強い反対意見を吐く人がいたが、小生等が押切って

引取り交渉をすることにし、更に詳報を求めると同時に、高知県浦戸、須崎に展開していた第二三突撃隊の掌整備長

寺尾多助氏が幸運にもホノルル郊外でアンスリウム栽培に従事中であることか判ったので、調査を依縮した。

手違いかどうか、なかなか見せて貰えなかったが、ねばってようやく七月に辿りついたところ、尾部や内部装置は無いが

倉庫の奥に埃をかふって横たわる流線型の頭部と胴体はまぎれもない回天一型であった。

 

発端となった博物館長ウォーレン・セスラー氏からの手紙は、米国陸軍の用箋に意外にも日本文で書かれていた。

水中特攻兵器である回天を、なんと陸軍が抱えこんでおり、それをオアフ島東端の人気のない倉庫の奥深く

展示されることもなく眠っていて、不用品として廃棄される寸前であったという。

これに目にとめて日本文の手紙を書いてくれたのは、セスラー館長の日本人妻ミチヨさんであった。

この人がいなければ、恐らくは誰にも気付かれず、一片の鉄塊として空しくスクラッフになっていたであろう。

このあとすぐセスラー氏は退任し、靖国神社側も筑波藤磨宮司から松平永芳宮司に引継がれた。

 

快報を受けて靖国神社では旧海軍関係者と会合を開き、内地持帰りについて協議が行なわれ、問題は経費の負担で、

おそらく数百万の仕事になるが、米国側は費用一切受取人持ちという。

一方、靖国神社は『この種の費用は支出できないことになっている。境内の記念物もすべて奉納を受けたもの』とのこと。

われわれ回天会には基金なぞありはしない。従って無料で運んでもらえないかという話になって、海上自衛隊に当ってみるとか、

米海軍首脳に声をかけるとか、大会社に頼むとか、いろいろ提案があった。

だがこれらはいつのまにか立ち消えになってしまった。

このとき松平宮司は『回天の引受けは回天の生残り自身の手でやってほしい。まず自分は私的に五〇万円を出す』と言われた。

そこまで宮司に言われては、われわれも後にはひけぬ思いで、回天関係者だけで全力をあげて頑張るほかはないと決心した。

果していくらかかるか、調達できるか、確信は持てず内心悲愴であった。 

在京の搭乗員連中は回天の秘匿名『マル六金物』に囲んで毎月六日に会合を続けているが、以後幹事は毎週の会合に

話し合って連絡調整を重ねることにした。

甲飛十三期出身者に熱心な人が多く、募金運動の趣意書発送を皮切りに、精力的な活動を開始した。

輸送面で実に好都都合だったのは七十四期の搭乗員山田達雄氏(旧姓大野)が日本通運でたまたまこのような特殊貨物の

担当であり、会社の業務として以上に献身的に奔走して貰ったことだ。

まずは一番心配な運賃の割引きを海運同盟に交渉することだが、なかなかはかどらず、結局は折よく日本郵船がハワイ・日本間の

定期航路に進出したので第一船ブリッテンバーグ号に船積みすることになった。

回天を据付ける場所は現在富国生命本社に使用されている旧遊就館(近日返還予定)の玄関横に決まり、

架台、鉄棚、銘板、説明板などを手配した。

税関手続も当局の御好意によって無税になった。

 

さて現物は五十四年七月六日ホノルルを出発、月末横浜に入港、八月四日大型トレーラーで都内を進行し靖国神社に搬入された。

黒々とした艇体に飾り付けられた小さな軍艦旗がひとしお印象的だった。

尾部や潜望鏡か無くては格好がつかぬ。

各方面から前もって話があったが、長野県で鉄工所を営む搭乗員の一人が名乗り出て、徹夜の突貫工事で長野と九段坂を

トラックで往復しながら、とうとう終戦記念日とお盆の八月十五日までに完全に外形をととのえてくれた。

募金も五百万円を目標として運動したのたが、かなり上廻る拠金に達したし、お蔭で予定外のマストを立てることが出来、

大津島基地の主計長であった期友窪添竜輝の寄贈になる軍艦旗を翻すこととなった。

奉納の期日は十月十三日に定め、序幕式とあわせて回天の慰霊祭を催すこととし全国の御遺族、関係者に案内した。

 

当日正午靖国神社昇殿奉拝、終って軍艦旗掲揚の上、旧海軍の軍楽隊演奏の裡に、巫女により除幕、清祓黙祷、

続いて小生より宮司に奉納目録を贈呈、宮司よりは懇篤なる御挨拶のあと感謝状を頂いた。

遺族にはじまる献花は演奏の間にながながと続いた。

左右から扶けられて壇にのぼり、回天に手を触れ潜望鏡を抱いて動かぬ老母の姿は涙なくしては見られなかった。

出席者は三四〇名、懇親会の席に遺品館の講堂を充てたが、予定を上回る参加で窮屈になり御迷惑をかけた。

クラスの御遺族では橋口 寛の御両親と福島誠二の弟昭氏にご出席いただいた。

クラスは山田 譲、佐丸幹男、渡辺収一などの顔が見えた。

 

(あとがき)

この回天はどのような遍歴を辿ったのか、やはりパナマからハワイに移されたものらしいが、まだ返事がなくはっきりしていない。

終戦後、米海軍が大津島基地から訓練用回天四基を持去っており、内二本をビキニの水爆実験に使用したと言われるので、

残りを分散して調査したあと、そのままにしたものらしい。

帰って来た頭は炸薬を充填する実用頭部ではなく、訓練用の駆水頭部であった。

ちなみに、二人乗りの回天四型のほうは完備品がもとコネチカット州ミスチックの海洋博物館に展示されていたが、

近年ホノルルの潜水艦博物館に移されており、先述の混乱を招いた写真はこれが誤って送られたものであった。

また回天二型はワシントン郊外の海軍博物館にある。ワルター機関すなわちロケット機秋水と同じく、水化ヒドラジンと過酸化水素を

反応させ水中四〇ノットの高速を出すエンジンを備えるが、外見は四型と同型であり、現在内部構造まで確認できていないので、

こかもやはり四型である可能性もある。

手紙が舞込んでから一年有半、過ぎし目欣然として還らぬ出撃の途についた多くの若人が身と心を託した回天が

ようやく靖国神社に安置された。

御遺族、戦友がその姿を偲ふよすがともなれは、この上ない幸である。 

回天作戦の中核となって散った期友の名をここに誌し、あらためて偲びたい。

 

村上  克巳   一九、一一、二〇  パラオ

福田      斉   一九、一一、二〇  ウルシー

石川  誠三   二〇、 一、一二  グアム

川久保輝夫   二〇、 一、一二  ホーランディア

久住      宏   二〇、 一、一二  パラオ

都所  静世   二〇、 一、一二  ウルシー

中島健太郎   二〇、 一、一五  訓練中殉職

吉本健太郎   二〇、 一、二一  ウルシー

豊住  和寿   二〇、 一、二一  ウルシー

川崎  順二   二〇、 二、二六  硫黄島

河合不死男   二〇、 三、三〇  沖縄

土井  秀夫   二〇、 四、一四  沖縄

福島  誠二   二〇、 四、一四  沖縄

柿崎      実   二〇、 五、 二  沖縄

橋口      寛   二〇、 八、一八  終戦時自決

 

(ひとつの挿話)

(一)

回天序幕、慰霊祭の参列者のなかに異彩を放つ一団があった。

白衣に身をかためた山形県羽黒山の修験者、巫女の二十余名である。

多くの信者を擁する同山の神林茂丸管長は回天の事蹟を知り、グアム、ハワイの戦跡をめぐり海水を採った上、

月山の山頂に回天戦士を祀る鎮魂碑を建立された。

その除幕の五十四年八月十五日、小生は招かれて高さ二千米の聖地月山に登り式典に参列、雲の上の山頂で

「同期の桜」を合唱した。

その縁によって十月十三日の慰霊祭に清酒二十本を携えて上京、式のあと回天の前で修験独得の祭祀を行なわれた。

日本人に共通する感覚を積極的に具現してゆく、宗教人の風土に密着した根強さに、われわれは感謝と共感を覚えた次第である。

 

(二)

十一月十八日靖国神社で例大祭が行われ、そのおり高松宮殿下、同妃殿下が、ひと月前に奉納ほ終えたばかりの

回天を御覧になった。

もと搭乗員たちがお迎えし、小生から回天帰還の経緯、構造、性能、訓練、戦果など御説明申上げたが、闊達な殿下から

次々と御質問があり、「潜望鏡は洋上では難しくないか」などと鋭い御指摘に、流石は海軍の宮様と感銘を覚えた。

台風二十号の前触れの雨がいっとき止み、黒い肌の光沢を一段と増した回天の前でわれわれと一緒に記念撮影に入って頂いた。

妃殿下よりも「御苦労様でした」との御言葉を頂戴し、長かった回天帰還運動がこれで完了したとの思いが胸の奥から

静かに湧き上がってきた。

 

(碑文)

回天

人間魚雷回天は大東亜戦争の前途が暗雲につつまれた昭和十九年八月、わが海軍の一角に姿を現わした。 

この回天は、うるわしき日本の民族を、国土を、身を捨てて護らんとねがい馳せ参じた若人たちと共に、

次々と南溟の海に征き、再びは還らなかった>

この作戦で戦死した搭乗員は八十九名。整備員は三十七名、殉職、自決者は十七名を数える。

今ここに回天一型を修復安置して、国難に殉じた回天戦士の至純の御魂を偲ぶよすがとする。

昭和五十四年十月  回天会

 

  

回天奉納除幕式

 

説明をおききになる高松宮と妃殿下

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/10/21