海軍大尉 小灘利春

 

第二回天隊実記B

平成 8年 7月

 

八丈島の防衛態勢

回天の使用方法について、警備隊司令と何度も打ち合わせをした。

中川大佐は「回天が敵の戦艦をやっつけてくれれば、八丈を守り抜いて見せる」と、

いつも力強い言葉で我々を激励された。

太平洋の島々は、米軍が進攻して来る度に日本軍が玉砕し、島を奪われてきた。

しかし、八丈島は徹底した装備の防衛陣地を構築しており、その自信から海陸の将兵は士気が高く、

玉砕など念頭にないようであった。

だが、島の防衛では戦艦の艦砲射撃が一番こたえる。

我々の働きに海陸部隊の期待が集まる状況にあった。

 

回天の攻撃目標は最初は空母、戦艦であったが、航行艦襲撃に移行してからは攻撃効果から言っても、

洋上で遭遇する確率からも、主要目標は輸送船団になっていた。

それが八丈では再び、戦艦なのである。

本来、陸上の砲台と軍艦の砲戦は、軍艦のほうが不利とされてきた。

陸側は砲台自体に敵弾が命中しなければ戦闘能力を失わないのに、軍艦側は砲身や砲台に限らず艦全体の

何処に弾丸が命中しても戦闘力が減殺され、横腹に穴放開いて水が入って来れば、艦が沈没することにもなる。

その点、散開して個々に独立している陸上の砲台が、軍檻と違って一挙に全滅するここもなく、

戦闘継続能力の面で明らかに有利である。

しかし、軍艦は砲を据え付けたまま自由に移動出来るので.、陸軍の野砲よりも大口径の砲を積むことが出来、射程も長い。

近代軍艦では更に方位盤射撃を利用して一隻から八−十二発も一斉に、正確に飛んで来るようになった。

弾火薬庫を持ち大量の砲弾、火薬を携行しているので、一回の攻撃でで敵陣に打ち込む砲弾の総量が大きい。

軍艦とくに戦艦の主砲の破壊力は第二次大戦になって格段に増大していた。

陸上砲台も土台から、艦砲に挟られてしまう時代になった。

戦艦の砲弾一発の重量は一トン前後ある。若し戦艦大和ならば砲弾の重量一.四五トン。

九門の一斉射撃で合計十三トンもの弾丸が一団となって飛んで来ることになる。

戦時中恐怖の的であった一トン爆弾の破壊力から想像しても大変な威力なのである。

また、戦闘の局面では、基本的には兵力の優勢な方が勝つ。

攻める側は攻撃する地点と時期を自由に選択できるので、大兵力の集中が可能であるのに対して、

陸で待って守る方は兵力が分散するのを免れることが出来ない。

島の攻防では結局、艦隊を組み集中砲撃を加える進攻側が、陸上砲台の利点を圧倒する様相に変わっていた。

だが、戦艦、巡洋艦の艦隊が陸上に対して艦砲射撃を行うときは、命中精度を高める為陸岸に近寄り、微速で、直進する。

正に回天にとっては絶好の獲物ではないか!

基地回天隊は、回天の新たな価値を発揮する可能性を握っていたのである。

回天の襲撃では普通、速力、方位角などに多少の誤差があっても命中の確率を高めるため、敵艦の中央に照準をつける。

しかし相手が大型で、ゆっくり動く戦艦ならば、主砲の砲塔群の直下にある弾火薬庫を狙うことができ、

「回天乗り」の夢である{戦艦の一発轟沈}が航行艦の攻撃で実現する可能性は、基地回天隊に於いて最も高いのである。

 

二〇年二月、硫黄島上陸に先立ち、米海軍は高速機動部隊の一部を八丈島攻撃に向かわせた。

しかし発進した艦載機は只の一機も帰って来なかった。

八丈側はこの空襲で高角砲弾を何と四万発以上、機銃弾も同数撃ち上げたのである。

しかし、この時から八丈の高角砲は水平射撃用に転換し、壕に隠れた対地砲台になった。

同時に海上を睨む砲も多くが海からは見えない場所に移動し、厚いコンクリートに被われた砲台になった。

対空砲火は一部の二五ミリと十三ミリの機銃だけとなり、しかもこれらは隠顕式の機銃座になった。

従って、敵の大軍が進攻して来ても、砲台は苦手な艦砲射撃への対抗は回天に依存し、

飛行機や上陸用船艇もあまり狙わず、上陸してきた後の残滅戦に備えていた。

敵が飛行場を狙って来るのは明白であるから、大半の火力はこれに集中できる配備である。

それには飛行場の南北が高い山地なのが好都合であった。

 

硫黄島の守備隊は善戦し、米軍の予定を覆す一カ月余にも及ぶ、長く激しい戦闘となったが、

その陣地構築を指導した陸軍の築城専門家がその前に八丈島に移り、地形を活かした大規模な洞窟陣地を築き上げた。

肉体労働で掘り進める兵員の苦労は大変なものである。

その地下陣地は今も残り、時折りテレビで紹介されている。

 

海軍の対空レーダーが西岸の高台にあって、兵科3期予備士官の西村邦夫中尉が指揮していた。

日本の本土爆撃に向かうB29大編隊が、気流の関係か低い高度で八丈島の真上を北上して富士山を目指し、

雲があっても頭を出す山頂から岐れて目標地に変針して行ったようである。

マリアナ諸島から島伝いに来て、大抵八丈の上空を通るので、敵機情報を送る海軍のレーダーは大活躍であった。

しかし、八丈の砲台は沈黙を守り、山の中で炊事の煙を出す事すら禁止されていた。

陣地の徹底的な秘匿を計っていたのである。

回天隊も二五ミリ単装機銃を持っていたので、底土の洞窟近くの谷間に細い銃眼だけが見える陣地を拵えた。

二〇センチ噴進砲(ロ夕弾)の供給も受けていた。

米軍の攻撃も、同時に殆ど無かった。B29の一機が故障でもしたのか爆弾を清走路に拗りこんで引き返したことがある。

やはりB29が一機、低空で神湊の港を銃撃したことがあった。

以前は屡々、小型機の機銃掃射があったと聞くが、私が着島後に見た攻撃は上記だけである。

硫黄島がら来る小型機はP38、P39とP51の、陸軍機ばかりであったが、私が見たのは上空通過だけであった。

あとB24コンソリデーテッド・リベレーターがひと頃は連日、低空で海岸線を掠めていた。

底士の崖の上に立っていると、眼下を四発の大型爆撃機が背中を見せて悠々と通り過ぎ、操縦士の顔もはっきり見える。

腹が立って、隊の二五キロ機銃を据えて撃ち墜してやろうと余程考えたが、司令の発砲禁止令があるので思い止まった。

毎日のように見る敵機が攻撃して来ないのは、指示任務以外は手出しを許さない米軍内部の規定があるのだううと

私は想像していたが、戦後判明したところでは米海軍は帰還ゼロの事実から「この島には何かある」と警戒して

「八丈島を勝手に攻撃してはならない」との命令を出していたと言う。

 

これには、隠された珍談がある。

上記のように、発艦した全機が帰らぬばかりか行方知れずになり、不時着機乗員を救助する周到な措置にも係わらす、

乗員や救命筏はおろか破片すらも発見できなかった。

撃墜され、機体諸共海底に直行したのであろう。

米国のプッシュ前大統領はグラマンTBFアベンジャー爆撃機に乗り小笠原島を攻撃して墜落し、

味方潜水艦に収容された経験を持つが、八丈では誰も巧く行かなかった。

これらが判ったのは戦後のことであり、当時日本側はパラシュート降下をしたのち遺体となって漂着した

米軍飛行士一人を確認しただけであった。

それで、対空射撃では飛行機は落とせないものと或いは諦めた事が、高角砲の水平射撃転換を促進したのでは

ないかと想像される。

「戦争は、双方の錯誤の連続である」と言われるが、その端的な一例であろう。

 

終戦になって直後、米軍の双発飛行艇PBMマーチン・マリナーが民家の屋根すれすれの超低空で飛び回った。

私は「捕虜になった米兵を捜しているな」と直感したが、事実その通りであったようである。

あと、武装解除の艦隊が来て、島で確認できたのは米兵の立派な墓一つだけであった。

他の艦載機乗員はどうなったのか、占領軍総司令部は関係者を次々と呼び出して、食べられてしまった

ケースを含めて厳しい究明を行った。

四〇人を尋問したが、それ以上何も出てくる筈はなく、米軍は調査を打ち切った。

しかし全員消滅では都合が悪いと見えて、この事件は発表が無い。

これまでの私の調査では、原著者がドイツ人の米海軍年記に

「第五八高速機動部隊二月一六、一七日関東方面を空襲、喪失八八機」の記事だけを僅かに見た。

七月七日の夜、敵の機動部隊が八丈島の東方六〇浬を通過した。

震洋隊は司令から出動命令が出て、艇隊は洞和澤の海面に一時浮かべられたのに、回天隊には連絡がなかった。                        

回天が攻撃できる距離は司令に申し上げてあったが、通ったのは真夜中でもあるし、

八丈を攻撃にくる敵でなければ回天は使わない計画だからであうう。

 

島での生活

八丈は女護が島との伝説がある。

島は生産力に限界がある為、男は長男以外は江戸、東京に出る風習があったと言う。

一方女性は残って黄八丈の生産に携わるので、当然伝説通り八丈島は女性が多い筈なのに、

内地疎開が進んで港に近い三根、大賀郷の村落では若い女性を全く見かけなかった。

我々の底土隊の宿舎には男の子供ばかり集まって一緒に遊んでいた。

ところが石積の隊では女の子達も来ていた。

途中で疎開船東光丸が沈められると言う事件があり、「同じ死ぬなら島で死ぬ」と言い出す人がいて、

島の南部の末吉村つまり石積基地の付近には老若の女性が残っていた。

石積隊の高橋和郎中尉、斎藤 恒、永田 望、山田慶貴の各搭乗員は一緒に、太平洋を望む見晴らしの良い民家で、

まここに優雅な生活を送っていた。

私も石穣基地に行くと大層御馳走になった。

鳥も適わぬ八丈島と言うが、ここまでは内地から何とが輸送がついていたので、食料にはさほど不自由は感じなかった。

農業学校を出た生産隊員が遠くから毎日牛乳を届けてくれたし、底土の隊で豚や鶏などを飼っていた。

 

搭乗員は士官と一緒に食事を摂るのであるが心利いた従兵がいた。

平成三年のある新聞記事を引用すると、

「お前は何の通信兵か。和文が英文か」

「自分は英文であります」 

特攻隊員であった佐藤喜勇(六五)は色白の青年、石井との出会いを覚えていた。        −

「風呂場で背中を流したり、御飯をついだリ、特攻隊員たちの身の回りの世話を焼いてくれていた。

夕食で僕の嫌いな肉が出ると、そっとサケ缶を持ってきてくれる……」、

この従兵石井 進一等水兵は背の高い、ほっそりとした感じで色が白く、黒目勝ちの瞳が印象に残る少年兵であったが、

後に関東稲川会の会長として政界関与や株買占めなどで勇名を馳せた。

「自分は八丈回天隊の基地員であった」と彼は包まず言っていたとのここである。

人間は地位を得たのち、自分の嫌な過去は隠す傾向があるが、彼の場合、当時の環境に良い感情を残していたのであうう。

横須賀海軍通信学校をトップクラスの成績で卒業して回天隊配属になった。

横振り電鍵を使って英文を送信したという。

只、珍しい名前ではないので、広域暴力団の会長がまさか彼本人とは、亡くなるまで私は気付かなかった。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/17