海軍大尉 小灘利春

 

忘れ難い人たち 吉本健太郎

平成12年 4月

 

山口県 兵72期 金剛隊伊48潜

昭和20年1月21日 ウルシー泊地菊水隊に続き二度目で突入

 

回天特別攻撃隊の最初の出撃搭乗員に選ばれ、第一陣菊水隊の伊号第36潜水艦先任搭乗員として

昭和19年11月8日・大津島基地を出撃し、西カロリン諸島の敵艦隊根拠地に向かった。

しかし20日未明、ウルシー環礁を目前にしていよいよ発進するとき、自艇が架台に密着したまま離れず、

彼は空しく内地に引き返した。

「発進できずに帰還した搭乗員は、その理由の如何を問わず再び出撃させる事なく、後進の指導に当たらせる」

内規が当初あったが、彼は第一特別基地隊司令官の長井満少将に強硬な直訴を行い、

許されて続く第二陣、金剛隊の伊号第48潜水艦で出撃・再度ウルシーを目指した。

 

攻撃予定日の20年1月21日早朝、米軍の泊地指揮官が発令した警戒警報が傍受された。

伊48潜が敵の哨戒機に発見されたのはその日の夜に入って後である。

捕捉された伊48潜は米対潜掃討隊の攻撃を受け、三日に及ぶ交戦の後終いに沈んだが、

回天は黎明時に発進するので、搭載回天四基が既に潜水艦を離れたあとの戦闘と判断される。

しかし詳しい状況は今尚判明しない。

 

彼は朝鮮北部の平壌第一中学校から兵学校に入り、

卒業後重巡洋艦の「利根」に続いて「高雄」に乗り組んでいた19年8月、潜水学校第十二期学生を発令された。

講義が始まる直前に再度の転転勤命令を受けて第一特別基地隊附となり、

私どもと一緒に大津島基地に着任、回天の搭乗員を命ぜられた。

色浅黒く眉秀でた、笑うと白い歯がこぼれる好男子で、サッパリとした気性の彼と、

大津島基地の急造バラックであった本部の二階で私は同じ部屋で起居した。

 

任務達成の瞬間に自分の肉体は微塵となって飛び散り、生命が消滅する人間魚雷である。

泊地攻撃の回天隊では、作戦が決定した時、出撃搭乗員は自分の生命が断たれる日付ばかりか時刻まで決まってしまう。

この世に生きているのはあと何日か、きっちり数えられるのである。

それでも精神教育的な事が別段ある訳ではないし、同期生の会話も明るい話ばかりであった。

生死をどう考えるかとか、特攻を志願したかなどの深刻な感じの話題は誰も取り上げない。

特に彼は難しい事は一切抜きで、訓練以外は朗らかな談笑ばかりの日々であった。

 

戦後、潜水艦乗り組みであった或る期友から聞いた所では、菊水隊作戦から帰ったばかりの吉本中尉と

呉でたまたま一緒になり「このまま命を捨てて、心残りはないのか?」と訊ねたところ、

彼は昂然と

「俺は『身体強健、いかなる激務にも耐え得る。最も危険な配置を志望する』と勤務申告書に書いて提出した。

それで与えられた今の任務は、俺にとって本望である」

と答えたと言う。

 

人間魚雷であれば、破滅の淵にある日本の国土、民族を護るには最も役立つであろう。

その意義ある任務に選ばれた喜びは、自ら生命を断つことの本能的な苦痛をはるかに上回るものである。

彼の胸中は戦後に始めて耳にしたが、明るい談笑のうちに心のなかで、

進んで死地に赴く意義をひとり考え抜き、凝縮させていたのであろう。

 

出撃前の両親宛ての遺書に、

「二十二年間、真に清き楽しき人生を送り、またここに無上の死処を得たる健太郎、

真に果報者にして欣然死地に投ずぺく候」

と書き残して居る。言葉どおり、「生を享けたその時代が求める最善」を尽くした彼の人生であった。

 

数多い遺詠のうちの一つは、

身は千々に 血肉の玉と 砕くとも  何か惜しまむ 堀の埋草

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/17