海軍大尉 小灘利春

 

忘れ難い人たち 渡辺幸三

平成12年 7月

 

東京都 予3水雷 菊水隊伊47潜

19年11月20日 ウルシー環礁 敵泊地内攻撃 戦死

 

慶応大学経済学部在学中に志願して海軍兵科三期予備学生に入り、

水雷学校第一期魚雷艇学生として艇長訓練を終えた後、

必死必中の新兵器要員の募集に応えて水中特攻部隊の第一特別基地隊附となった。

訓練墓地に決まった徳山湾の大津島に昭和19年9月1日、本部の建築がやっと間に合って

木片や鉋屑を手で払い除けながら入り、一特基第二部隊が開隊した。

5月から人間魚雷の操縦訓練に入ったが、肝心の兵器が只の一基も到着しない為、

当分の間は試作的の三基だけを懸命に遣り繰りしながらの、遮二無二突進する様な回天隊のスタートであった。

 

任命されたばかりの我々搭乗員たちが、出来たての新兵器の運動性能を調べ、

手探りの操縦方法開発、改善であったが、

第一の難問は回天の隠密潜入、即ち飛沫をあまり上げないで素早く水に潜る事であった。

第二部隊指揮官の、歴戦の潜水艦長板倉光馬少佐が実に口やかましく要求せれた。

エンジンの起動を確実にする為「速力20ノット、深度5米」に、セットして発動する規定になっていた。

重量八・三dの回天を浮力一〇〇キロに調整してあるが、操縦席の搭乗員が発動桿を押すと、

いきなり20ノットの回転数に上がる。

しかし艇は停止状態のまま艇尾を持ち上げ〈ダウンをとり〉・プロペラが空転して

真っ白な大飛沫を猛烈に飛ばすばかりでなかなか潜らない。

そればかりか、艇首が左へ左へと、ドンドン向きを変えてゆくのである。

なぜ左へ曲がるのか。毎晩開かれる研究会で早速この問題が取り上げられたが、だれも発言する者がなかった。

その時、ほっそりとした少尉の搭乗員が立ち上がって静かに意見を述べた。

「二重反転プロペラの前の方は右回り、後ろが左回りである。

艇が頭部を下げて潜入を始める時、まず前のプロペラが水面下に入る。

その羽根が海水を叩く力は、より浅い所で反対方向に回る後ろのプロペラよりも強い。

その為、潜り終える迄の間、艇尾を右に振り続けるのである」

一同は納得し、「お互いまだ日が浅いのに、観察眼の鋭い人物がいるものだ」と感心したが、

そのスマートな搭乗員が慶応出身の兵科三期予備士官、渡辺幸三少尉であった。

なかなか潜らずに飛沫を高々と上げ、左に回ってゆくと言う、水中奇襲兵器として致命的な欠陥も、

原因が判れば対策は簡単であった。

「深度ゼロ」に設定してエンジンを発動、海面上を走り始めて速力がつき、尾端の舵が充分に動きだしてから

深度を5米に変えれば、艇は直進して飛沫も上げず、滑らかに潜入してくれるのである。

 

渡辺幸三少尉は第一次回天作戦菊水隊の一員として伊号第47潜水艦に乗込み大津島を出撃、

昭和19年11月20日、ウルシー環礁の敵艦隊に突入した。

ガソリンと重油を満載した艦隊随伴タンカー「ミシシネワ」の爆発沈没は同隊が挙げた戦果である。

戦後になって渡辺さんが慶応大学のヨット部員であったと聞き、なるほどと合点した。

人間が操縦する魚雷という、空前にして絶後の乗物でも、海上作業の熟達者であればこそ

操縦上の障害を直ぐに見抜けたのであろう。

淡々とされた明快な説明を隣で開いていた私には、渡辺少尉の気品ある端整な横顔と、

身に付いたシーマンシップが今なお消えぬ鮮やかな印象となって残っている。

 

菊水隊で散華された搭乗員達は連合艦隊告示をもって、武人の亀鑑として全軍に布告され、

二階級特進の栄誉を受けた。

 

特攻隊遺詠集に収められた渡辺幸三大尉の遺詠は

身はたとひ 敵艦橋に砕くとも 御国安かれ 兵われは

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/17