海軍大尉 小灘利春

 

忘れ難い人たち 塚本太郎

平成12年 4月

 

東京 兵予4期 金剛隊伊48潜

昭和20年1月12日 ウルシー海域金剛隊で出撃 突入 戦死

 

慶応在学中、雨中行進で知られる昭和18年10月21日の明治神宮外苑競技場での出陣学徒壮行会に

参加した後海軍に入隊し兵科四期予備学生となった。

水雷学校の魚雷艇学生から志願して19年9月、回天搭乗員となり第一特別基地隊大津島分遣隊に着任、

操縦訓練に入った。

体格が立派で背が高く、色白でもあるので、搭乗員一同が研究会や食事で顔を揃える大津島の士官室では

いつも目立つ存在であった。

慶応時代は水球部員で、名ゴールキーパーとして人に知られていた。

持ち前の強健な身体の上に研鑽を重ね、壁が立ちふさがる様な立ち泳ぎで次々とゴールを襲うシュートを

跳ね返して守り抜き、見方を勝利に導いたといわれる。

 

その披、塚本太郎少尉は、回天特別攻撃隊の第二陣金剛隊の縞成に当たり、

四期予備士官の先頭を切って出撃搭乗員に選ばれた。

最新鋭の伊号第四八潜水艦に乗り込み、昭和二十年一月九日大津島基地を出撃、

敵の大艦隊が終結するウルシー泊地に向かった。

指令どおり一月二十一日の黎明時、四基の回天が発進して敵泊地に突入した事は、

同日早朝、米軍指揮官が警戒警報を発令したのを傍受しているので確実と判断されるが、

母潜水艦が未帰遺となったので、戦闘状況は不明である。

伊四八潜は二十一日の夜になって同島西方で敵飛行機に発見され、駆逐艦群の執拗な追跡爆雷攻撃が続き、

二十三日午前、遂に沈んだ。

 

彼は戦争中の当時、出陣に際してレコードに自分の肉声を吹き込んで遺していた。

先年御遺族が偶然発見し、NHKテレビでも放映されたが、祖国日本に生命を捧げる真情と共に、

父母、弟妹への切々たる愛情を吐露し、「さようなら」と別れを密かに告げていた。

 

東京都北区田端の実家は戦災に過っていたが、両親は焼け跡に近所の支援もあり、

その頃としてほ立派な風呂屋を開業し「太郎湯」と名付けた。

入り口には彼のモットーであった「己の為には汗を流し 人の為には涙を流せ」の言葉に、

「皆さんの汗ほ太郎湯で流す」と加え掲げられた。

ゴールキーパー姿のレリーフが後に水泳部の仲間達によって贈られ、番台の上を飾った。

このレリーフは現在、日吉の母校慶応大学水泳部の合宿所に置かれ、後輩たちを見守っている。

 

没後海軍大尉に特進、また功三級金鵄勲章、勲五等雙光旭日章を授与された。

彼が折に触れて家族に書き送った手紙に記された数多くの短歌、俳句は、

現在も種々の刊行物に掲載され、彼の名をこの世にとどめている。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/17