海軍大尉 小灘利春

 

長井 満少将と回天隊

 

昭和十九年七月一〇日、呉海軍鎮守府の管轄下に第一特別基地隊が創設され、潜水艦出身で当時佐伯海軍航空隊の

司令であった長井満少将が着任された。

本部が置かれた広島県安芸郡倉橋島大浦崎の通称P基地は「甲標的(特殊潜航艇)」を建造、運営する、呉海軍工廠

附属のような覆面部隊であった。

一特基は、これを海軍の正式機構として編成し、急速に強化するとともに、戦局の必要から各種の奇襲兵器が出現して

くる状況になったので、これらを研究し要員を養成するために新設された組織であった。

 

第一特別基地隊の大津島分遣隊は九月一日、山口県の徳山湾に臨む大津島に開隊し、新兵器「人間魚雷・回天」の

訓練基地となった。

ここは元来、呉海軍工廠水雷部に所属する軍機兵器九三式酸素魚雷の試験発射場であったが、回天搭乗員たちは

発令を受けてつぎつぎとこの地に集まり、訓練に入っていった。

長井司令官はこの大津島に度々姿を見せられ、特に十九年十一月八日に始まった回天特別攻撃隊の各隊が出撃する度に、

その前には必ず来島された。

出撃の壮行会に出席されて、出撃搭乗員をはじめ隊員一同が司令官と親しく言葉を交わす機会を持った。

壮行会では、出撃する士官搭乗員ばかりでなく、水雷科や予科練出身の下士官搭乗員も一緒に出撃するときは並んで

主賓になる。

本来ならば、絶対的な階級制度の軍隊では、若い中尉、少尉や予科練出身の回天搭乗員にとっては、少将の司令官は

はるか雲の上の遠い存在である。

しかし彼等に向かって長井司令官は、いつものとおりに対等の友達のような言葉をかけられ、彼等もまた和気藹々として

司令官を取り巻き、嬉しそうに話しかける姿が今も目の前に浮かぶ。

長井司令官はこのように形式的、権威主義的な雰囲気を回天隊員たちにいささかも感じさせず、人間の真心によって

動く部隊らしい、和やかな親しみ深い存在であった。

特殊潜航艇の乗員たちにも好感をもって迎えられていたと伝えられるが、回天の場合まさに特攻隊に最もふさわしい徳を

備えたトップを与えられたものと、私ども搭乗員は当時から思っていた。

 

しかし一般隊員たちと肩を組むように親しく交わる庶民的、野人的魅力ばかりの司令官ではなかった。

司令官としての値打ちは第一にその職責上の使命を果たしたか否かにある。

特に、救国の兵器、回天の訓練基地の新規設定、設営と、搭乗員の練成は緊急を要し、そのためには、慣例を破っても

強行する果断な実行力が必要であった。

回天の担当には、伊号第四一潜水艦の艦長から一特基参謀に着任した歴戦の勇者、板倉光馬少佐に指示し、督励して、

この新兵器の急速戦力化を推進された。

選ばれて大津島分遣隊の指揮官となった板倉少佐が、その任務を獅子奮迅の活動をもって遂行されたことは評価される

べきであろう。

 

回天の訓練基地は、大津島に続いて光、平生、大神と設立、拡充され、搭乗員の数も増加した。

第二特攻戦隊自身、やがて大艦隊の消耗に伴って日本海軍の中心戦力となっていった。

長井司令官は、温厚誠実な人柄ながら人の上に立って新天地を創造してゆく優れた指揮官であると、

我々の目にも映っていた。

回天を潜水艦に搭載し特別攻撃隊を編成して出撃するとき、壮行式は第六艦隊司令長官が主催するが、陸上の

前進基地から発進する回天の隊が訓練基地を出発するときは、長井司令官が直接壮行式をとり行われた。

私は二十年五月に第二回天隊長として出撃したので、光突撃隊全員が整列した壮行式の場で、整備長から私ども

出撃搭乗員八名は「七生報国」の鉢巻きを頭につけて貰った上、長井司令官から豊田副武聨合艦隊司令長官が

揮毫、署名された短刀を授けて頂いた。

各出撃隊員の記念写真に長井司令官の姿を留めているが、意外にも少将の司令官が搭乗員たちの後ろの列に立って

おられる光景が多いのは人柄を偲ばせる。

 

昭和二十年三月一日、一特基は第二特攻戦隊となり、研究訓練機関から戦闘部隊に変わった。

山口県光にあった一特基第四部隊が光突撃隊となり、ここに本部が置かれて将旗が翻った。

訓練基地は更に同県平生、大分県大神にと広がっていった。

 

長井さんの人柄について、我々が更に認識を高めたのは寧ろ戦後である。

終戦後長く続いた混乱期、皆が目先の生活に追われて、互いの消息にもうとかった頃から、長井さんは戦没した

数多くの回天搭乗員の慰霊、顕彰を心がけておられたと聞く。

光突撃隊の最先任搭乗員であり、特攻隊長として回天の訓練運営のリ−ダ−として活躍された兵学校七一期の

故三谷与司夫氏は、戦後大阪の電通に勤めておられたが、上京の折り私どもに

「あの長井さんがいま、大阪の下町で陶器屋の店先に立って、茶碗をひとつひとつ売っておられるのだぞ。

気の毒で見ておれない。だが、そんな状況なのに、回天の戦没者の慰霊になると、あちこちに出掛けられて

務めておられる。これは常人には出来ることではない。有り難いではないか」と感動をもって語っておられた。

戦後上京された折り、われわれ搭乗員たちが兵学校、予備士官、予科練と出身の区別なく集まって来て、

司令官を囲み、ひとときを楽しく過ごしたことが幾度かあった。

そのときの記念写真をとり出すと心が温まる思いがする。

 

回天戦没者を慰霊し顕彰するための「回天顕彰会」は、昭和三七年三月、長井さんの御発議によって

回天の開発、製作、運営、搭乗に係わった有志が多数集まり、設立を決議した。

回天顕彰会はその年七月に発足し、会長には開戦当時の第六艦隊司令長官清水光美氏が就任、長井さんが副会長を

つとめられた。

同会は大津島に回天記念館を設立することを当初の目標に掲げて運動を続けた。

四三年に地元である徳山に本部が移り記念館が完成し、以後整備拡充が進んだ。

回天顕彰会はその後も近在の人々が中心となって活発に慰霊顕彰の活動を続け、現在に至っている。

誠心誠意の慈父、長井さんの温容はいつまでも回天隊員たちの脳裏から消えないであろう。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2008/08/24