海軍大尉 小灘利春

 

忘れ難い人たち 久住 宏

平成11年 4月

 

埼玉県出身 海兵72期

金剛隊伊五三潜にてパラオへ出撃

発進直後気筒爆破の事故発生自沈

 

久住 宏少佐は東京府立九中から海軍兵学校に進み、巡洋艦多摩乗り組みを経て

潜水学校11期普通科学生となり、19年8月卒業した。

この時期、特攻の気運はまだなく、極秘の人間魚雷を知る人は潜水学校でも稀であったのに、

どうして知ったのか強硬にこの必死兵器への配属を志望し、潜水学校を卒業した兵学校72期生では

唯一人の回天搭乗員となって、開設されたばかりの訓練基地大津島に着任した。

 

彼は川越市 の素封家の生まれで人柄かせよく温厚であるが、至って朗らかな話し振りで、

「おっとりしているが、生まれが東京に近い分、江戸っ子だな」と私は思っていた。

蔭のない正義感と使命に徹する責任感に溢れ、名誉も利益も一切顧みない人物と見たが、

次の遺詠にもあるとおり、彼は命よりも名を重んじ、さらに名を挙げることよりも、

国の一礎石に徹する事が念願であった様である。

 

命より なお断がたき ますらおの 名をも水泡と いまはすてゆく

 

彼は出撃前の或るとき「万が一、命中出来ないまま燃料が切れた場合、俺は浮流機雷となって敵を待ち、

命ある限り最後まで闘う」と私に語ったことがある。「動けなくなったら潔く自爆」の発想を超えて居た。

 

回天特別攻撃隊の伊号第五三潜水艦で、久住少佐は回天四基の先任搭乗員としてパラオ水域の

敵艦隊攻撃に向かった。

昭和20年の元旦を太平洋上で迎えた後一月十二日の夜明け、コッソル水道の沖合から湾口に向かって

発進したが、直後に後部推進機関に事故が発生したことを知り、直ちにあらゆる処置に当たったであろう。

しかし航行不能を確認すると、五分間隔で相次いで発進してくる後続艇の行動を妨げない様、

また浮上漂流して敵に発見され作戦を混乱させることのないよう、

更には母潜水艦が彼を救出しようと敵前で浮上し、危機に陥ることを恐れ、

これが最善の処置と決断して自ら艇内に水を入れ、従容として死んで行ったものと思われる。

少佐の性格からは当然に推察される自己犠牲の行動である。

このあと久家 稔大尉が艇内に悪ガスが発生して失神、発進不能となった時、母潜は敵前浮上の危機を冒して

彼を収容した。

しかし、既に艦を離れたあとの久住艇の場合、若しも救出を試みれば潜水艦の自殺になったであろう。

 

御両親宛ての遺書の最後には

「願わくば君が代守る無名の防人として、南溟の海深く安らかに眠りたく存じ居り候」と記されている。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/12