海軍大尉 小灘利春

 

黒木博司の事蹟

平成16年 5月

 

岐阜県出身 海軍機関学校第51期

大正10年9月11日生 昭和19年9月7日殉職 満22歳 海軍大尉 没後少佐

 

黒木博司少佐は、機関学校生徒の頃から東京帝国大学の国史学教授平泉澄博士に傾倒し、

この国が不滅であるために為すべきことを自ら求めた明敏な洞察力をもって、

国際情勢の変転と戦局の行方を予見し、我が国の将来を憂慮していた。

 

大東亜戦争勃発に際し黒木少佐の感懐は、

すめろぎの国滅ぶるか興るかの 戦いなるぞ征けや益良雄

 

当初、潜水艦乗りを希望して潜水学校学生となったのち、特殊潜航艇の搭乗員を熱願して、

機関科将校初の艇長となった。

その基地大浦崎にあって、特殊潜航艇の進歩改良に力を尽くしたのであるが、

もはや特潜では今後の戦局に対処するには間に合わないと判断、

物資の乏しい我が国を救うには、一艇の体当りで一艦を沈めてゆく肉弾兵器しかないとの結論に至った。

この構想を仁科開夫少尉はかの特潜艇長たちと協力して練り上げた。

 

黒木少佐が昭和19年1月、血書してその成功を誓った歌は、

忘れめや君集れなば吾が継ぎ 吾集れなば君継ぎくくるるを

 

幾多の困難を克服して遂に実現にまで漕ぎつけた黒木少佐は、

基地が山口県大津島に開設され、操縦訓練に入った翌日の昭和19年9月6日夕刻、

樋口孝大尉の操縦する艇に同乗して悪天候のなかを訓練に出発した。

しかし艇は途中で徳山湾の海底に突入、捜索救助が暗夜のために遅れ、

詳細な報告と遺書を遺して、7日早朝二人は壮絶な殉職を遂げた。

 

死を決した時、武士の道を思い艇内で書き記した歌は、

男子やも我が夢ならず朽ちぬとも 留めおかまし大和魂

国思い死ぬに死なれぬ益良雄が  友々呼びつ死してゆくらん

 

次に史料調査会海軍文庫発行の「海軍」第六巻に掲載されている該当事項を転記する。(編者)

 

特殊潜航艇

開戦時真珠湾攻撃に参加した甲標的(特殊潜航艇)は、その後シドニーとマダガスカル島ディゴスワレス、

ガダルカナル島ルンガ泊地の攻撃に使用されたが、甲標的二墓を攻撃地点まで運搬するのに

大型潜水艦二隻を使用しなければならず、その攻撃効果も挙らないことが多かった。

広島県大浦崎のP基地で甲標的要員の訓練と研究を行っていたが、研究が進むにつれ、

敵泊地攻撃よりも局地防禦用に使ったほうが効果的であると考えるようになった。

このためには甲標的自身に発電機を装備する必要があり、十八年秋から新型のものの生産を開始した。

最初のものを甲型、試作艇を乙型、新型量産艇を丙型と呼称した。

甲型は乗員二人であったが丙型は三人になった。

甲標的はその後も改良が加えられ、やがて乗員五名の丁型となって「蚊龍」と呼ばれたが、

これは昭和二十年になってからのことである。

甲標的は魚雷を発射するものであるから、決死的には使用されたが必死的なものではない。

現に真珠湾攻撃に参加したときも、特に乗員の収容について種々の手配が講ぜられた。

 

特攻兵器の発足

昭和十八年秋、大浦崎で訓練中の甲標的員の中に黒木博司中尉がいた。

同中尉は甲標的は構造が複雑で量産に適さず、攻撃力も不十分であるとし、

簡単で強力なものとして必死の人間魚雷を考えだし、同室の仁科関夫少尉とともに検討をはじめた。

黒木中尉は十八年末、上京して海軍中央部に血書で請願を行った。

しかし軍令部の担当部員藤森少佐がこの請願を永野総長に報告すると言下に却下された。

しかし、戦局はその後加速度的に悪化したので、昭和十九年二月二十六日、呉海軍工廠魚雷実験部に

黒木中尉、仁科少尉考案の人間魚雷の試作を命ずることになった。

最初は魚雷命中直前に搭乗員が海中に投げ出されることを条件としていたが、

これが日本海軍が組織的に特攻作戦に乗り出した最初である。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/17