海軍大尉 小灘利春

 

忘れ難い人たち 河合不死男

 

 

回天は人間が操縦する「魚雷」であるから、もともと潜水艦に搭載されて、敵の前進基地に近づき、

発進して泊地内の敵艦隊を奇襲したが、次の時期は広い洋上で航行中の艦船を求めて攻撃した。

戦局の急迫にともない、さらに陸上基地から出てゆく回天隊が次々と編成された。

その第一陣として河合不死男中尉(没後大尉)を隊長として第一回天隊、通称白龍隊が光基地から沖縄へ出発した。

 

河合中尉は愛知県の出身で、成章中学(現高校)から海軍兵学校に入り、

戦艦榛名に乗組んだ後潜水学校に進んだ。

故久住宏少佐が昭和20年1月、パラオ諸島コッソル水道を目指して伊号53潜水艦から発進し、

直後に気筒爆発の災厄に遭って自沈したが、同少佐とは兵学校で同期かつ同じ分隊であった。

潜水学校で再び一緒になり、また揃って回天搭乗員を志願した。

 

彼は教育、訓練指導には厳格であった。

わずかな操縦ミスで一つしかない生命がたちまち消し飛ぶ、緊張の毎日であるから、

当然精神の引き締めが常に必要な部隊なのである。

同時に彼は厳しいばかりの人間ではなく、人の命を大切にする気持ちが人一倍強かった。

真冬の寒風吹きすさぶ海上で、訓練中の回天が岩礁に正面衝突して動けなくなったとき、

彼は直ちに衣服を脱ぎ捨て裸になり、腰にロープを巻いて荒れる海中に飛び込んだ。

自分が凍死する危険を冒して遭難回天に泳ぎ着き、ロープを取りつけて曳き出し、

搭乗員の無事救出を成し遂げたのである。

 

河合中尉は新設の光基地に移動し、ここが第一回天隊の本拠になった。

重量8トンの回天を洞窟から曳き出して海に浮かべる、

すべて人力で進める発進作業を、大津島の予科練出身の下士官搭乗員たちは熱心に見学し、

また自発的に作業に協力していた。

 

そのひとりに桜井貞夫兵曹がいた。

冷たい冬の海に浸かって回天を海に入れる作業の先頭に立つ彼に、河合中尉が光から出撃する直前、

彼に送った手紙は、当時の回天隊員同士の出身や階級を問わぬ温かい心の交流をしのばせる。

 

桜井兵曹宛て書状

桜井 有難う 何も言うことはない

あの樺島の 率先躬行の裸体突撃訓練こそ 若い血潮の花である

一度飛び込んで また飛び込む

あの精神 何よりもかえ難い玉である 此の精神を絶対に忘れるな

俺は 貴様は是非一緒につれて行ってやりたかったが

巳むを得ざるものあり 貴様をあざむきしことを許してくれ

俺も帝国海軍軍人である 貴様等の若き血の溢流を決して濁したくはないのだ

総て己を空しくして頑張ってくれ 頼むぞ

桜井 今の気持ちを持ちつづけて行け 貴様の最後を俺は祈っている

有吉と共に血書したあの文は 俺は持っている

俺は貴様等の本当に純なる気持ちに何度泣いたか知れぬ

貴様の心に俺はかえって教えられる事があったのだ

海軍中尉の俺が 貴様等に教えられる事が多々あったことを 俺は貴様に白状する

桜井 俺は貴様に会わずして出てゆく 貴様の御守をしっかり身につけて出撃して行く

そして 貴様の御守と一緒に 敵に突っ込んでやる

必ずやるぞ 貴様も必ずやれ 俺の後につづけ

大津島の9分隊は貴様で引っ張って行け 頼む

では 桜井 御機嫌よう

 

第一回天隊は隊長以下7名の回天搭乗員が基地要員120名とともに、

昭和20年3月13日、第18号1等輸送艦に乗り光基地を出撃した。

佐世保に寄港し資材を積み込んで沖縄に向かったが、

入港直前の3月18日未明、那覇北西の粟国島付近で米国潜水艦スプリンガに遭遇。

3度にわたって魚雷計8本の攻撃を受け、輸送艦は1時間もの交戦ののち遂に沈んだ。

河合隊長以下便乗中の第一回天隊は127名全員が戦死、輸送艦の乗員225名も全員が戦死した。

両方とも名簿がないため、隊員・乗員の氏名調査に長い年月がかかったが、

輸送艦については乗員全員の氏名住所を明らかにすることができた。

しかし、第一回天隊員は僅か14名が判明したにとどまり、今なお我々は手掛かりを求めて調査を続けている。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/02