海軍大尉 小灘利春

 

回天隊の殉職者、自決者

 

平成18年 2月 7日

 

最初の訓練基地「大津島」で昭和十九年九月五日から搭乗訓練が始まった。

その翌六日の夕刻「〇六金物」試作一号艇を樋口 孝大尉が操縦、回天の創始者である黒木博司大尉が同乗して

一七四〇、徳山湾内の直線航走訓練に出発した。

五千米の目標地点で浮上左旋回し、Uターンして復路に就き一八一二、20ノットの高速で潜入したまま

行方不明となった。

総員が基地全部の船艇に分乗して徹夜の捜索を続けたが翌朝まで発見できず、二人は酸素欠乏のため殉職した。

3基あった試作艇はいずれも前部の酸素気蓄器が省略されていて、代わりに固定バラストを敷き、

発進時に艇体が水平になるよう前後釣り合いを調整してある。

従って航走して酸素を消費するにつれて気蓄器がある後部だけがどんどん無くなり、尾端の舵と推進器が浮き上がる。

この状態で速力を20ノットに急に上げ、潜入しようとすると、プロペラが空転に近い急回転をして、

真っ白な飛沫を猛烈に撥ね飛ばすばかりて艇はなかなか潜らず、左旋回を続けてゆく。

故・樋口少佐が遺された航跡図にはこの左旋回しながら潜入する状況がはっきりと示されている。

長さ15米の回天が速力20ノットをかけ、故・樋口少佐の遺書のとおり傾斜が20度にもなってから一挙に潜入すれば、

深さ15米の海底に突き刺さるのは至極当然である。

事故発生時は低潮時であり、当日の潮高差は3米あったので、高潮時には水深が18米になった。

この水深が故・黒木少佐の遺書には記録されている。

故・黒木少佐の遺書に、当日午前の湾外での訓練に同乗した仁科関夫中尉の所見として

「波浪大なるとき同様、20ノット浅深度潜航中、俯角大となり、13米まで突っ込みたる由」の報告ありと

記述されているが、これも同じ状況と思われる。

 

殉職事故の原因は公式には「引き揚げたところ筒には異常がない。横舵系統の一時的不調と推定する」とされた。

実のところ、この事故は第一に試作艇の特性によるものであり、開隊のときまでに本来ならば到着していた筈の

正規の「回天一型」であれば起こらなかった性質のものである。

試作艇では特に、後部の海水タンクに度々注水して艇を水平に保ち、過大浮力にもならないよう、充分な修正を

続ける注意が常に必要であった。

訓練開始の頃、潜入が困難になることは、当時の搭乗員たちの誰もが認識していた一般的な現象であった。

海水タンクに注水する浮力調整操作が確立し、操縦方法が改善されてのちは、潜入時の大傾斜と左旋回、

従って海底突入事故も防止できた。

なお、海底に突入したときの衝撃は柔らかく、操縦者にはそれと、すぐには判らない。

故・黒木少佐の遺書に記述された「約2分を経過し、浮上を決意し」以後に取られたいろいろな観察、操作は

すべて海底に沈座して以後の処置であった。

この事故は荒天が原因ではない。

訓練に出発したときは全天が黒い密雲に被われ、一時的に強い風があったがやがて収まり、弱い雨になった。

しかし真っ暗闇であり、広い海面の捜索は困雛であった。

 

昭和二十年一月十三日の午後、周防灘の天候が急変して激しい暴風雨となり、午後から訓練に出た回天は全基に

事故が発生、訓練を中止した。

大津島の魚雷発射場から野島を一周する訓練に出た一基、中島健太郎中尉操縦、宮沢一信少尉同乗の回天は

野島の南端で観測困難となって機械を停止したが、曳航して帰途に就いた追躡艇が荒天のため途中で曳航不能となり、

呼んだ救雛船も事故多発のため到着せず、遂に行方不明となった。

翌十四日朝漂流中の同艇が発見されたときは酸素欠乏のため操縦者、同乗者とも眠るが如く絶命していた。

 

光基地の矢崎美仁二飛曹は搭乗員分隊の分隊士であった三好 守中尉とともに多々良隊伊四七潜で出撃する予定

であった。

その日を前に三月十六日の一六二一、潜水艦から発進して航行艦襲撃訓練を無事終了し、作業艇が基地に向け

曳航を開始したときは「異常なし」との応答があった。

しかし基地に帰り着き、一七五八接収したときは意識がなく、同僚たちの長時間に亘る懸命な人工呼吸、

マッサージにも係わらず遂に蘇生しなかった。

「気箇潜水抜弁の閉鎖が不十分であったため艇内に排気ガスが漏洩して中毒」と報告されているが、

整備不良による一酸化炭素中毒と思われる。

 

その隊長三好 守中尉は出撃間近かの三月二十日、小雨の続く荒天のなかを光基地沖合で航行艦襲撃訓練の

最後の仕上げを行い、何回目かの突撃で一一一三、見事目標艦の艦底中央を全速30ノットで通過したが、

下げきっていなかった特眼鍵が艦底に引っ掛かり、根元から折損して浸水、沈没した。

三好中尉は目の前にある特眼鍵で額を強打、失神したものと思われ、一三三〇艇を接収したときは無念にも

絶命していた。

目標艦に接近し過ぎての突入であったと言われるが、或いは設定した深度が浅かったかも知れない。

 

阪本宣道二飛曹は光基地で四月七日、光沖で航行艦襲撃訓練を終えて帰途に就いたが途中、小水無瀬島の狭い水道を

通航した折り、岩礁に衝突して殉職した。

同兵曹の厳父・阪本 勝氏は後に兵庫県知事をつとめ、東京都知事選にも東龍太郎氏に対立して立候補した名士であった。

本人も青山学院中等部、関西学院中等部の五年生から予科練に入り、回天搭乗員となった。

「日本人離れしたノーブルな容貌」と言われ、リーダー格の一人であった。

 

光で連続した殉職者三人の合同葬亀が数日後、しめやかに執り行われた。

 

平生基地の十川 一少尉は四月二五日に航走訓練中、航行船舶に激突して殉職した。

沿岸航路船の常用航路である「上の関海峡」を近くに控えており、訓練海面としては付近水域に島が多いことに加えて、

多数通航する船舶が障害であった。

十川少尉は慶応大学ラグビー部の選手であった。

 

光基地の入江雷太一飛曹は大柄でおっとりした色白の偉丈夫であった。

伊五八潜の回天搭乗員として神武隊、次いで多々良隊で出撃したが発進の機会がなく帰還した。

同じ顔ぶれに二名が加わった六名の搭乗員が、続いて轟隊の伊三六潜で出撃するために航行艦襲撃の強化訓練に入った。

五月十七日、大津島付近海面で伊三六潜から発進したが、目標艦に衝突して沈没した。

数時間後に引き揚げられたが、同乗者坂本豊治一飛曹とともに殉職していた。

 

五月十七日、平生湾内で訓練を終えた回天一基が曳船に引かれて基地に戻る途中、米軍機が敷設した磁気機雷に

触雷してハッチが開き、浸水して沈没した。

同乗者楢原武男一飛曹は沈没した艇内で遺体となって収容され左が、操縦者北村鉄郎一飛曹は沈没の際、

艇内の空気とともに艇外こ流れたためか、翌日遺体が付近の海中で発見された。

 

七月四日、大津島で訓練中の山本 孟少尉は航行中の船舶に衝突して殉職した。

航法訓練で周防灘の野島を一周し終わり、徳山湾口に向かって七、八分間ほど潜航を続けたのちに浮上したところ、

眼前を大型の木造運荷船三隻を曳航した船列が西に向かって航行中であった。

山本少尉は回避するためか直ちに潜入したが、船底に接触して水深三〇米の海底に沈没した。

五時間ほどのちに収容されたが、特眼鏡が後方に屈曲して裂けていた。

徳山湾外も沿岸航路の船舶が輻輳する水面であった。

 

光基地の和田 稔少尉は毒隊伊三六三潜で出撃したが発進の機会なく帰還し、続いて同艦で多聞隊として再出撃

するため七月二五日、光基地沖合で同潜水艦から発進して航行艦襲撃の訓練中、水深三十米以上の海底に突入して

行方不明となった。

折から米機動部隊の波状空襲が続いていたため捜索ができず、発見されぬまま殉職した。

終戦後に枕崎台風が通過したあと、回天が浮上して上関町長島の海岸に打ち上げられ、

遺体は隊員たちの手によって茶毘に付された。

 

神洲隊伊一五六着で出撃を予定されていた大津島の小林好久中尉は七月三一日、中村一飛曹が操縦する回天に同乗指導

して訓練こ出たが、徳山湾の入り口付近を潜航航走中、米軍が敷設した磁気機雷が爆発し水柱が噴き上げた。

その衝撃で回天は上部ハッチが開いて浸水、沈没した。

海面に浮かび上がった操縦者は指揮官板倉少佐が内火艇で急行して救助し、やがて潜水夫が沈没した艇を捜して接収した。

艇体はハッチが開いたほかは損傷がなかったが、同乗席の小林中尉は遺体となって艇内に残っていた。

操縦者は頚椎を捻挫したものの、幸い一命を取り留めた。

 

殉職事故の原因別分類

米軍磁気機雷に訓練中触雷 (戦死)      2件  3名

目棟艦との衝突      (操縦上)     2件  3名

航行船舶との衝突     ( 〃 )     2件  2名

地物との衝突       ( 〃 )     1件  1名

荒天により漂流、行方不明 (悪天候)     1件  2名

海底突入、沈座      (故障、操縦他)  2件  3名

機器整備による事故    (故障)      1件  1名

計                     11件 15名

 

訓練開始の前、搭乗員の約三割の殉職を見込まれていたが、結果的に潜水艦出撃全延べ人員の10%であった。

その原因別の内訳は敵機雷に訓練中に触雷したもの、正しくは戦死であるが、目標艦、航行船舶との衝突、

島や岩との衝突、漂流行方不明、整備不良によるものであり、

巷間言われる「機器が不備な兵器」は当たらないであろう。

 

(終戦後自決)

平生突撃隊の特攻隊長橋口 寛大尉は終戦を迎え、当面の処置を終えたあと八月十八日未明、自分が出撃する

予定であった回天の操縦席に純白の第二種軍装で座り、拳銃で胸を二発撃って自決した。

日記の最後に「臣道を尽くし得ざるを恨む」と自決直前に記し、

また遺書の最後には「先駆けし期友に申し訳なし。神洲遂に護持し得ず」と記した上、

回天で戦没した同期生十人の名前を連ねていた。

 

大神基地の松尾秀輔少尉は終戦となって甲板士官として隊内の諸業務を整理した後、

八月二五日夜、練兵場に正座し、手槍弾を左胸に当てて自決した。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2008/02/17