海軍大尉 小灘利春

 

金剛隊 伊五十六潜の戦闘

平成16年 2月21日

 

金剛隊作戦に参加した回天搭載潜水艦6隻のうち、一番遠い攻撃地点はラバウルの北西に位置する

アドミラルティ諸島マヌス島の米軍の戦略的要衝、セーアドラー港であった。

この地を担当した伊号第五六潜水艦は最も早く昭和191222日、甲板上に総員集合して第六艦隊

司令長官三輪茂義中将の訓示を受けたのち1300大津島基地を出撃した。

 

艦長は森永正彦少佐、

搭載回天4基の搭乗員は 柿崎実中尉(兵学校72期)

.                前田肇中尉(兵科3期予備士官)

.                古川七郎上等兵曹(水雷科下士官)

.                山口重雄一等兵曹 (同) であった。

当初、一斉攻撃の決行日が20年1月11日であったが、1日延期して12日の黎明時と決定された。

 

突入の前日11日、伊56潜は陸岸を確認した上で反転し北上、50浬離れた地点で 2300浮上し、

針路180度、第三戦速で充電しながら水上進撃を開始した。

セーアドラー港の入口10浬まで接近し甲板上から搭乗員が乗艇、あと潜航進出して湾口の手前5浬で、

陸地を確認して位置を正確に測定した上で回天を発進させる計画であったという。

しかし浮上航走中、湾口の手前35浬の地点で早くも潜水艦警報「S連送」の放送が始まり、

56潜も対空電探が飛行機を探知したので急速潜航した。

幾隻もの哨戒艦の音源が聞こえるなか、回天発進のためせめて湾口まで15浬のところまで近寄ろうとしたが

危険、且つ潜航進出では黎明発進に間に合わないと艦長は判断した。

中止して突入を一日延期することに決め、反転して北上した。

 

12日夜、伊56潜は湾外60浬で浮上、水上航走で南下接近中、湾口40浬圈に入った頃から対空電探と逆探に

感度があり、S連送が又もや始まった。

レーダー電波を探知した5分後には大型艦、小型機が滑走路を飛び立つ交信を傍受した。

潜航して針路180度で湾口に向かって進んだが、哨戒艦の音源が聴音に入り途絶えることがない。

艦長は止むなく突入を再び打ち切り、北へ避退した。

 

同艦が潜入した時刻は130230であり、それからずっと潜航を続けていた。

同日、第六艦隊司令部は

金剛隊の各艦宛て「14日黎明までに攻撃の機を得ざる艦は中止、呉帰投を命ず」と打電した。

しかし14日の夜になって、艦長は突入敢行を企図し、潜航のまま艦首を南に向けた。

忽ち哨戒機、警戒艦艦が動きはじめ、聴音の感度がいつまでも消えなかった。

13日未明以来40時間を超える苦闘の潜航となって、艦内の空気は呼吸できる限度一杯に近づき、

遂に艦長は回天の発進を断念して再起を図ることに決定、帰途についた。

16日、伊56潜は制圧を受け不成功の旨を打電、

これに対し第六艦隊は18日、同艦へ「耐久試験の見地から回天を搭載したまま帰投するよう」命令した。

 

セーアドラー港は広大な泊地が広がる天然の良港である上、米軍がニューギニア北岸各地の日本軍拠点を

連続空襲し、また上陸して次々と攻略し西進するのに効果的な位置を占めていた。

且つラバウルを孤立させる要にもなった。

米陸海軍はここに一大根拠地を建設し、飛行場は太平洋戦域では最大級のものであった。

比島に侵攻する前、米国の艦隊、上陸部隊がこの港内一杯に集結した。

在泊艦船は総数998隻に達したという。

 

菊水隊が初攻撃を決行した日の丁度10日前、1110日の朝この港で大事件が発生していた。

その日は約200隻が碇泊中であった。

米第七艦隊の真ん中に、就役後四ヵ月の新鋭大型弾薬輸送艦マウント・フッドが投錨して

各種の砲弾、爆弾、爆雷、ロケット弾、ナパーム弾などの火難類を各艦に、多数の小型船を使って

配分する作業に忙しかった。

その弾薬輸送艦が突如、大爆発を起こしたのである。

積載していた3,800トンの弾薬が詐裂し、茸状の煙が二千米の上空まで立ち昇った。

満載排水量13,910トンの艦全体が跡形もなく粉々になって飛散し、周囲の艦船の上に

大小の破片となって降り注いだ。

跳び出したロケット弾が離れた艦に命中した。

合わせて数百人が死亡、死傷者約千人にも及ぶ大惨事となった。

このとき

「日本の小型潜航艇が港内の水面に小さな司令塔をあらわし魚雷1本を発射、マウント・フッドの横腹に

命中して大爆発が起こった。続いて向きを変え、別の輸送船に魚雷を発射したが、これは逸れた」

という目撃者?がいた。

幻覚であろうが、開戦時、真珠湾に進入した甲標的が米軍内に良く知られていたことから連想したと思われる。

周辺海域の捜索が行われたが、日本の潜水艦が存在した形跡は確認できなかった。

爆発の原因を調査した結果、証拠は別段ないが火薬の取扱が粗雑であったとして後日決着がついたという。

目撃情報を信じたかどうかは別として当然、米軍は対潜警戒を強化する必要を認識し、

事故現場であるこの港は格別に厳重であった。

日本側はこの異変に気付かなかったであろうが、差し向けられた伊56潜が繰り返し湾口に接近しようとして

遂に果たせなかったのは無理もない。

56潜は2月3日大津島基地に帰着した。

呉の第六艦隊司令部で7日に金剛隊作戦の研究会が開催され、同日4人の回天搭乗員は退艦して

大津島へ傷心の帰還をした。

56潜の艦内て過ごした往復の日数が44日にも及ぶ、陽の目を見ない航海であった。 

 

以上

 

注1:アドミラルティ諸島  Admiralty Islands

   マヌス島        Manus Island

   セーアドラー泊地   Seeadler ( 2° S 146° 50’ E ドイツ語ゼーアドラー海鷲)

   マウント・フッド    USS MOUNT HOOD  AE-11(弾薬輸送艦)

 

注2:伊56潜艦長森永正彦少佐 水雷長森田隆司大尉 航海長木村八郎大尉

        乗組 田口英夫中尉 機関長伊藤久三大尉 乗組宇佐美篤中尉

   同艦は本作戦の前10月、比島東方海面で戦果を挙げ、全魚雷を撃ち尽くして帰投した。

 

 

機会を得ず帰還した回天隊員のその後について:

既述のとおり40時間におよぶ制圧に耐えて帰投した伊56潜に乗り組んだ回 天隊員は

柿崎実中尉・前田肇中尉・古川七郎上曹・山口重雄1曹の4名でし た。

 

この4名は神武隊伊36潜に乗り3月2日硫黄島方面に出撃したが作戦変更の 命により帰投し、

直ちに多々良隊伊47潜に乗り換え3月29日沖縄方面に出 撃した。 

途中対戦部隊の攻撃を受け船体損傷のため帰還した。 

更に天武隊 伊47潜に乗り4月24日沖縄方面に出撃し、今までの泊地襲撃から洋上襲撃に方針転換した

最初の回天隊として、遂に全員散華した。

この壮烈な敢闘精神とその強固な精神力には何も言う言葉がありません。

ただただ頭が下がります。

 

多々良隊伊47潜に同じ回天隊員として乗り組んだ横田寛2飛曹も3回の出撃 を経たが

その都度魚雷の不良のため発進するこができず帰還した。

すなわち 1回目は多々良隊伊47潜、2回目は天武隊伊47潜、3回目は轟隊伊36潜 です。

そして終戦となり戦後手記を発表しております。

手記によれば柿崎中尉(72期)の艦内生活は平静で乗員と談笑していたとのこと。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/10/21