海軍大尉 小灘利春

 

金剛隊 伊号第三十六潜水艦の戦闘

平成16年 4月26日

 

回天特別攻撃隊金剛隊の回天搭載潜水艦六隻のうち、伊号第三六潜水艦は昭和19年12月30日、

大津島基地を出撃して菊水隊のときと同じく西カロリン諸島のウルシー泊地を目指した。

 

艦長は前回どおり寺本巌少佐。

回天搭乗員は 加賀谷武大尉(兵学校71期)

.          都所静世中尉(機関学校53期)

.          本井文哉少尉(同54期)

.          福本百合満上等兵曹(水雷科) の四名であった。

 

五隻の潜水艦が昭和20年1月11日に一斉攻撃する予定であったが、第六艦隊は1月4日、一日延期して

12日黎明時に突入するよう命令した。

その頃既に豊後水道は敵潜水艦が待ち伏せしており、伊36潜は第三戦速、之字運動で突っ切った上、南下した。

日目頃からは敵哨戒圏内に入り昼は潜航、夜は浮上航走で南下を続けた。

突入前日の11日未明、ウルシー環礁へ南方から迂回接近しようと水上航走中0230、レーダー電波を探知して

急速潜航、やがて哨戒艇が来て爆雷を投下したが至近弾はなかった。

36潜は所在を知られたので環礁北西入口から進入することに決め、ロワリュー水道西方海面に

12日黎明に到達するよう、潜航のまま速力3ノットで西へ進んだのち0800 北寄りに変針した。

が、推測航法で環礁から西へ浬離して北上していた筈のところ1300 ヤウ島に潜航のまま座礁してしまった。

仰角13度、水深26米で沈座し、潜望鏡の先端が海面上に出ないので観測できない。

そのまま夜になるのを待ったが、この小島は環礁の南西入り口に当たるため、小型の艦船がしばしば頭上を通った。

そのうち伊36潜の艦体が波で珊瑚礁に接触する音がワイヤーを取り付けるようにも聞こえ、

万ーに備えて機密書類を集め自爆する準備をした。

島の傍で長時間沈座して動けなかったことが結果的に充電量を低下させずに済むとともに、敵哨戒艦艇の捜索を

やり過ごすことになった。

しかし前日0230 の潜航以来既に20時間以上経過しており、艦内の状態はもう極限状態に近い。

黎明発進を控えているので、夜の更けるのを待って12日0200 離礁浮上作業にかかった。

後進をかけ離礁し、浮上して前進微速で避退中にまたもや座礁。

幸い半注水していたタンクがあり排水して離礁し、手探りの脱出に成功した。

 

水上航走で発進点の「北西水道入口ソロレン島の228 度6.5浬」に向け急ぎ北上、

搭乗員本井少尉、福本上曹が甲板上から乗艇して潜航した。

搭乗員加賀谷大尉、都所中尉が乗艇、

発進点に到着し、潜望鏡を上げて観測、艦位を確認した上、回天の発進作業に着手した。

 

0342 加賀谷艇発進、続けて本井艇、都所艇が発進した。

その直後、敵哨戒機の爆弾が同艦右前方200 米に落下した。

福本上曹は高圧空気が漏洩して苦しい模様であったが0357 発進。

真上に敵機がいるので同艦は直ちに深々度潜航に移った。

警戒艦艇のスクリュー音が早くも0401 接近、0405 から爆雷投下が始まった。

 

ウルシー泊地北部を目指した各回天が通航するロワリュー水道は環礁北西端のソロレン島と

その南のソン島との間にある。

幅は1浬余りで比較的広いが、水深は浅く大体米、さらに浅い個所がところどころにあるので、大型艦船の

通航には適しない。潜水艦も潜没したままでは入れないが、

回天にとっては入り口の島さえ特眼鏡で視認出来れば、進入はさほど因難ではない。 

水道入口までの距離 6.5浬は回天の水中進出速力12ノットで僅か 33分である。

0342 二発進した回天は0415 頃水道に到着する筈であり、その前に浮上して位置を確認するが、

当日の日出は0602 なので、浮上観測は日出の2時間近くも前になる。

当然、視界は暗かったであろう。

月出は0354 であるが月齢は27.0 で光は弱い。天候は曇で東の微風があり、海面は穏やかであった。

 

大洋のなかにある環礁の周辺では、海流に加えて干満に伴う潮汐流が発生する。

ウルシー島の礁湖は世界第四位の広大な面積を抱え 270平方キロ、平均潮高は大潮で1.3米ある。

上げ潮のときは環礁の周囲の海面全体が上昇するので、海水が各水路を通って礁湖のなかへ流れ込み、

満潮時刻を過ぎれば逆に外へ流れ出る。

大量の海水が水道の出入を繰り返すのであるが、狭く浅い水道を通るときはかなりの流速になる。

主要航路であり幅が広いムガイ水道でも流速がノットに達する。

当日は高潮の時刻が0623 、潮高1.07 米であったから、

回天は上げ潮に乗ってロワリュー水道を通航し泊地に進入したことであろう。

 

弾薬輸送艦マザマに突撃した回天

米海軍の弾薬輸送艦マザマ(排水量13,855 トン)はウルシー北泊地の第534錨地に碇泊していた。

昭和19年11月10日にアドミラルティ諸島のセーアドラー港で、同型の弾薬輸送艦マウント・フッドが

爆発した大事件の際、第七艦隊の中央に同艦が錨泊していたために損害を一層大きくした教訓から、

マザマは西の端に当たるこの錨地に遠ざけられていた。

最も危険な弾薬輸送艦が、図らずも伊36潜の回天が目指したロワリュー水道の直ぐ前に

据えられていたのである。

 

マザマは12日黎明、日本時間0550 に不審な物体を発見。

続いて潜望鏡が見えた。

裏方位185度、距離 1,100米であった。

日出は0602。

東の微風があって艦首が 030度を向いていた。

不審物の方位は同艦の右後方155度になる。

正しく回天が姿を現したのであるが、そのあと反対側の左舷前方に抜け、

0554同艦から40ヤード離れてから爆発した。

一番船倉のハッチ蓋が吹っ飛び、同船倉と前部弾薬庫、艦底タンクに浸水が始まって、前部が沈下し、

左へ傾いた。

付近の兵員7人が舷外に吹き飛ばされ、または爆発で起こった海水の波で流された。

死傷21名。

同艦にとって全くの幸運であったことに、積荷の弾薬が爆発しなかった。

さらに一番船倉後端の隔壁も破れたが、三〜五番船倉が無傷であったため艦全体の浮力は残っており、

二番船倉の浸水が途中で止まった。

艦首が沈んで艦尾は上がったものの、結局沈没には至らなかった。

大型、小型の曳船、工作艦ほか多数の艦艇が集まって、沈没を防ぐために先ず水深が浅い錨地へ曳航、

移動するとともに、大きく凹み、裂けた外板の防水工作を施し、排水作業を続けた。

積荷の弾薬は相当量を海中投棄したが、使用可能なものは艀に積み移した。

搭載中の弾薬は5,300トン。

若し引火していたら、マウント・フッドが爆発したときの搭載量は3,500トンであったから、

さらに派手であったろう。

 

同日早朝、揚陸艇LCI−600 が回天の爆発により沈没。

人員を救助した駆逐艦ウッドワースは続いて潜水艦掃討に出動を命ぜられた。

駆逐艦群が泊地内を走り回って潜水艦捜索を行い、爆雷攻撃を続けた。

マザマの付近では1106 次いで1343 爆雷攻撃。

1945 にも浮上した小型潜水艦を発見したとの通報を受け、その度に総員配置の号令がかかった。

最後の爆雷攻撃は2008 同艦の真方位 191度、距離浬で警戒艦艇が行った。

 

36潜は0557 大爆発音を遠距離に聴いた。

これはマザマの報告0554 と概ね合致する。

あと、0600、0610、0613にそれぞれ大爆発音を遠距離に聴いた。

そのうち爆雷攻撃が止み、捜索艦艇の推進機音も消えたので、潜水艦は無事離脱し帰途についた。

36潜の回天発進作業中に爆弾を投下したのは第21哨戒爆撃隊のPBMマーチン・マリナー飛行艇

であったが、同飛行隊は1月21日(9日後)の朝、泊地内で浮上中の回天を発見し

0856 爆雷四発を投下して沈めたと報告している。

事実とすれば、この回天は同日夜間にウルシー泊地を攻撃する予定であった伊48潜のものではなく、

この伊36潜から発進した回天と思われる。

 

マザマは仮修理に3月6日までかかり、あと本修理のためサンフランシスコに向かった。

マザマの艦首寄りの艦底に回天の司令塔が突き刺さっていたことから、この攻撃は回天によることが

確認された。

マザマに命中しながら回天が爆発しなかったのは、設定した深度が僅かに深すぎて、艦底を擦過した

ためと考えられる。

搭乗員は左手を伸ばしてハンドルを廻し、深度機の深度を調定するとともに、直ぐ右にある深度計で

実際の航走深度を見ているから、深度装置の誤差ではない。

同艦の喫水は満載状態で8.2米であるが、その時の喫水は艦首 7.0米、艦尾 7.8米であった。

搭乗員は暁の海面に浮かびあがった艦影が、喫水がより深い大型艦と判断したのではあるまいか。

全速30ノットで艦底を擦過し、司令塔が切断されたときの衝撃は、回天の慣性信管が作動するには

足りなかったのか。

搭乗員は負傷したかも知れないが、電気信管へ右手を伸ばし、スイッチを押したのであろう。

しかし喫水判断の僅かな差とともに、その起爆の僅かな遅れが、弾薬輸送艦マウントフッドの大惨事を

再現するには至らなかった。

 マザマの幸運は逆に、日本の側にとっては悲運であった。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/09