海軍大尉 小灘利春

 

菊水隊 伊三十六潜の回天発進一考察

平成15年 1月

 

昭和十九年十一月二十日、〇〇三〇ウルシー環礁東方の海面に浮上した伊号第三六潜水艦の甲板で

搭乗員今西太一少尉、工藤義彦少尉が夫々の回天に乗艇、潜水艦は潜没して発進点に進出した。

〇三〇〇吉本健太郎中尉、豊住和寿中尉が艦内から交通筒を通って乗艇、予定地点のマーシュ島の一〇五度九・五浬に

到着して発進作業を開始した。

目標海面はウルシー環礁の北部、中部泊地。各回天は発進後西進してマーシュ島南約一五〇〇米を目指し、

その地点で変針してモグモグ島南方の北部泊地に向かい、前日の潜望鏡偵察で正しくその場所に停泊中である事を

確認していた空母、戦艦群へ突撃する予定であった。

 

しかし、最初に発進しようとした吉本艇は全てのバンドが離脱したにも拘らず艇が架台に固着して離れず、

そのままで機関を発動したが艇は全く動かなかった。

直ぐ後ろの豊住艇も同様、離れない。

工藤艇もまた、浸水が発生して発進不能となった。

不測の事態に艦内は混乱した。

今西少尉は他の艇が次々と故障し発進が遅れていることを知ると「では自分の艇だけでも早く発進させて下さい」と

艦長に何度も催促し、〇四五四単独で発進して行った。

伊三六潜は残った艇を発進させようと鋭意修復を図ったが成功せず、打切って、甲板上の艇内に残っていた

工藤少尉を収容するため敵前で急速浮上した。

しかし視界は既に明るく、忽ち敵哨戒機に発見され、日没に至る迄艦艇と航空機の攻撃に曝され、

浴びた爆雷は百発以上という。

艦は二三四〇迄潜没回避を続けた後に浮上し、北方へ高速離脱して漸く帰投できた。

 

吉本中尉は大津島で私と同室であった。

戻って来た彼は「どうしても架台から離れなかった理由が分からない」と、苦しげに語った。

私には若干心当たりがあったが「いずれ調査の後正式に解明されるであろう」と者え、その場での論議は控えた。

離れなくなる原因には次の様なケースが考えられる。

@塗料による回天の下部ハッチと交通簡台座との固着、塗装から日が浅い程危険性大、

伊四七潜では接触面付近の塗装を禁止した。

Aハッチの防水ゴムの劣化、融着

B錆の発生による接触面の固着

C発進の前、交通筒に接する回天と潜水艦側の両方のハッチを閉鎖した後、交通簡内部に海水を充満させるが、

若し海水が十分に入らず空気が残ると、回天は交通筒へ押し付けられるであろう。

 

十九年の九月末であったか、我々は揃って潜水艦発進の訓練をした。

菊水隊、金剛隊の当時は「離脱発進方式」で、バンドを全部外して回天が架台を離れ、少し浮いた所で機関を発動する。

この起動のタイミングが実に微妙であり、海面に飛び出す者が初期の頃は少なからずいた。

回天戦での海面跳出は致命的な失敗になるかも知れない。

私は考えた揚げ句の操作で、跳び出さず、潜水艦にも接触せず、の巧い発進が出来た。

しかし、同時に発進訓練をした石川誠三中尉は、回天からバンドを離しても架台から離れず、

訓練が終わって潜水艦が海面に浮上した途端、回天が甲板上からガラガラと舷側を海面まで転がり落ちた。

何事にも遠慮しない彼であるから「艇の中で、何回転も振り回された。ひでエもんだ」とカンカンになって怒っていた。

その原因は調査されたとは思うが、どんな扱いになったか覚えがない。

「構造の不備か、操作ミスかで、交通筒の中に海水が一杯入らず、空気が残っていたのではないか。

海中では水圧によって回天が架台に押し付けられているが、浮上すると水圧がなくなるので架台から離れる。

それで潜水艦の浮上後に転落した」と私なりに解釈した事だけ記憶にある。

 

さて吉本艇、豊住艇はその後どうなったか。

当時の同艦機関長で、回天の発進作業を指揮された在塚喜久氏の談話によると、その回天二基はバンドを外しているのに

どうにも離れない。

工藤少尉を救出してただちに急速潜航し、深く潜る為前進を始めた所、忽ち三基共流れていってしまった。

工藤艇もバンドを解放してあった、との事である。

使えなくなった、危険物の回天三基を投棄するという困難な作業は必要がなくなったのである。 

この点から見て、回天が架台に固着した原因はやはり交通筒の内部への注水不足であった可能性が高いが、

別の原因でも似た現象が起り得ると思う。

工藤艇の方は、多くの記録に「艇内浸水」とだけ書かれているが、菊水隊の大津島帰還時の研究会席上同少尉の報告では

「発進作業中、吸排気筒から浸水が始まって閉鎖に手間取るうちに、一分間で腰まで漬かった」という言葉があった。

 

一方米軍の方では当日夕刻、哨戒飛行中のグラマン・アヴェンジャー雷撃機二機が

ウルシー環礁の北東端ファラロップ島の東方十五浬の海上で浮上潜水艦を発見、攻撃を加えた。

二一〇三潜水艦は猛烈な爆発を起こして沈没した。しかし雷撃機の一番機は墜落した。

二番機の操縦士は「伊三六潜を間違いなく撃沈した」と頑強な主張を曲げず、

一部の戦史では同艦がこの時沈没したとしている。

勿論、伊三六潜はその後も回天を搭載して合計五回の出撃をしているがこの地点は丁度伊三六潜が工藤少尉を

収容して運航した辺りである。

撃沈した「浮上潜水艦」とはこの時流失した回天の一基であったことは間違いないであろう。

伊三六潜は潜航中、今西艇の到達予想時刻である〇五四五、大爆発音を聴いた。

米油送艦ミシシネワに回天が命中した時刻であるが、その直後に前記マーシュ島の付近で防潜網を乗り越え、

泊地内に侵入した回天があり、撃沈されているので、誰の艇の命中であるか断定する事は出来ない。

 

伊三六潜回天の発進状況に関連する若干の事項に就いて、搭乗員各位の優秀な頭脳にも戦後五八年の今では

記憶に無いかも知れないので付言すると

 

<回天の吸排気筒>

潜水艦が潜没したまま搭乗員が回天に乗艇し発進出来る様、また搭乗員や整備員が回天に随時行き来できる様、

交通筒が潜水艦の甲板に設置された。

但し菊水隊、金剛隊の当時は潜水艦の中心線上に搭載される回天だけに交通筒がつき、

それがない艇は搭乗員が甲板に出て、上部ハッチから乗艇しなければならなかった。

敵泊地に接近した潜水艦は深夜一旦浮上して交通筒の無い回天に搭乗員を乗艇させ、潜航して発進点迄進出する。

菊水隊の伊三六潜から発進した今西太一少尉の場合、他の各艇に予想外の事故が発生した為発進が大幅に遅れ、

乗艇から発進迄実に四時間半近くも艇内で待機する羽目になったが、通常は各艇とも乗艇後三時間は待機した。

更に、菊水隊、金剛隊で使用された「回天一型」は「一型改一とは違って操縦席の前に隔壁があり、

前部の二空(純粋酸素)気蓄器と一空(普通空気)気蓄器を収めた大きな区画とは遮断されている。

従って操縦席の空間は狭く限られるので、長い待機中に酸素は減少し、炭酸ガスが増加して呼吸が苦しくなる。

このままでは肝心な時に搭乗員の能力が発揮できない。

それで「吸排気筒」が設けられていた。

一部がフレキシブルになった鋼管が潜水艦の内殻から交通筒の無い回天の艇内まで繋がり操縦室を換気する。

給気用ゴムホースがこの管内を通り、排気と溜水が逆にその周囲を通り抜けて潜水艦に入る構造である。

回天発進の直前、潜水艦内で吸気弁と排気弁を閉鎖し、この筒を艦内の操作で回天から引き抜く。

回天の底に孔が開くので搭乗員が同時に蓋をしてケッチ(掛金)を掛けて浸水を防ぐのである。

菊水隊三六潜の工藤少尉の場合、このケッチが錆付いて仲々掛からず、1分で腰迄浸り2〜3分後に掛け終った時は

既に操縦室は大量の浸水で発進不能となってしまった。

交通筒のある艇ではそれに給気ホースを通して換気が行われた。

従って全艇に交通筒が付けられた天武隊以降、給排気筒は無くなった。

 

<交通筒>

回天発進の際はまず回天の下部ハッチを閉め、潜水艦側のハッチも閉めた上で交通簡内に海水を充満させる。

その為各交通筒の下部には給排水弁があり、上部には排気弁があった。

この排気弁の取付け口が筒内の最も高い位置に無ければ、空気が十分に抜けず、回天が交通筒に密着する原因になる。

またこれらの弁を早く閉鎖したりすると空気が残る。

更に水圧の変化にも問題がある。

菊水隊が出撃中の十一月、柿崎 實中尉は潜水艦発射訓練の後で「深度8米で交通筒に注水し、深度12米で発進した。

注水と発進の深度が異なる時は注意が必要である」との意見を研究会で述べた。

その後確か「回天が離脱しない時は、機械を発動すればよい」との付言があった。

菊水隊の二隻が帰還した後大津島で報告、検討会があり、幾多の改善事項の中に伊三六潜の固着問題を承け

「交通筒のハッチ用パッキンを良質の黒色ゴムに取り替え、黒鉛粉末を塗布する」との決定があった。

 

<離脱発進と滑走発進>

菊水隊、金剛隊の頃までは回天を潜水艦の架台に固縛しているバンドを順次解放して、

回天が少し浮上って後に発動桿を押して機関を起動する規定であった。

但し、バンドを離した時回天が水平に浮上ってくれるとは限らない。

若し大きな仰角がかかれば、発動した途端に海面に飛び出す恐れがあるので、その場合は一度海面まで自然に

浮上した後発動する事になるであろう。

潜水艦から発進する際、深度と速力をどの様に調定するか?と言う問題と共に、バンドの落下音の後、

どの瞬間に発動桿を押すか?

微妙な艇の動きを身体の感覚で判断しながらの敏速な対応が搭乗員に求められた。

これは若い人でなければ出来ない。

金剛隊各潜水艦の内地帰投が続く最中の昭和20年1月30日、大津島で指揮官板倉光馬少佐は研究会の席上、

判明した各艦の戦闘経過を説明の後

「回天の発進方法をこれまでの『離脱発進』から『固縛発動、滑走発進』に切り換える。

これであれば冷走や気筒爆破があった時搭乗員を救う事が出来る。

それに、1基でも海面に跳び出せば攻撃が難しくなる。発進間隔は2分以上とする」

との発言があった。

それまでは5分間隔の発進が原則であった。

 

戦後、板倉少佐が防衛庁へ提出された資料「回天を以て航行艦襲撃を実施する為の実験の成果及びこれに至る経緯」に

「搭載装置の改造に依り滑走発進(それ迄は離脱浮上発進)可能となりたる事」と述べておられる様に、

潜水艦側の構造物や架台の改造などの対策が取られた様である。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/24