海軍大尉 小灘利春

 

回天の大業成らず、何故に

平成15年10月12日

 

魚雷に何故に人が乗ったか。頭部爆薬量が何故に空前絶後の1、5トンであったのか。

 

兵器「回天」はこれでこそ空母、戦艦を搭乗員一人の働きで一隻を撃沈することが出来る。

回天が大群となって敵大艦隊の前進基地ヘ一斉突入するとき、主力部隊を一挙に覆滅して、

敵勢の侵攻を食い止めるのである。

 

回天を遂に兵器採用に持ち込まれた故・黒木博司少佐の構想はこの形であり、かの時期、

日本の国を護るためには最も効乗的な戦法であった。

我々が回天搭乗員になると知ったときは皆が皆、敵の大艦隊が集結した泊地へ五十本、百本の

人間魚雷が一斉に躍り込んで撃滅する驚天動地の光景を眼前に描いていた。

たとえ自分の生命は捨てようとも、国を救う働きが叶う大きな任務に勇み立った。

 

回天は正しくその名のとおり「天運挽回」を実現するに足る「戦略兵器」であった。

それに適合した構造と性能を備え、その使命達成は充分に可能であった。

 

しかし、奇襲兵器の「先制集中の原則」に反する不徹底な小出しを続けた後、

作戦を実施する第六艦隊は十分な成果を得ないまま、警戒が厳しい敵泊地に近づくのは

危険になったと判断して洋上を航行中の輸送船団に回天の攻撃目標を転換した。

 

回天は本来、目の前に出てきた敵を追いかけるような使い方をする「戦術兵器」ではない。

空母、戦艦を撃沈できるのに、駆逐艦に命中しても一隻。

米軍の駆逐艦、護衛駆逐艦合計千隻のうちのどれほどを沈めても、

また無数いる輸送船を如何ほど沈めたとて、

使える数に限りがある回天が傾いた戦局を動かすことは出来ないのである。

 (事実、米国の戦中の海上勢力は加速度的に拡大を続け駆逐艦 580隻、護衛駆逐艦 423隻。

輸送船団は港湾荷役の設備を必要としない戦車揚陸艦LSTが数では主力であるが、

これだけでも千隻を越える)

 

主力艦同士の艦隊決戦が無くなってのち、空母、戦艦を撃沈しようとしても航空特攻では困難である。

上部構造物が如何に破壊されても、艦底に穴が開いて水が入らなければ船は沈まない。

それが魚雷、特に回天ならば出来るのである。

 

昭和二十年に入り制海権、制空権を失って敗勢が決定的になると、

洋上で戦う手段は既に回天以外にはなくなっていた。

残り少ない潜水艦を回天を搭載することで活かし、国体の護持と国民、国土を破滅から護るため

回天搭乗員たちは勇戦奮闘を続けた。

 

それは「比島沖海戦を前に、敵航空機の活動を一時的にも抑える」ため、第一航空艦隊司令長官

大西滝次郎中将が、外道ながら緊急非常の策として体当たり攻撃を命令した「神風特攻」が、

やがて他の戦闘手段が見当たらないまま日常化していったのと同じ道を辿るものである。

 

故・黒木博司少佐があまたの障害を越えて実現された回天は昭和十九年八月一日遂に兵器採用、

「1OO基を八月末までに生産せよ」との至上命令が出ておりながら、生産は一向に進まなかった。

訓練基地は九月一日、山口県大津島に開隊したが 「回天の生産ゼロ」という失態のため

試作艇、それも僅か3基を遣り繰りしての搭乗訓練に入るほかなかった。

これが九月後半まで続いた始末である。

この3基が正規の量産型であったかのような記述がこれまでなされて来たが、

問題点を隠蔽し責任を回避するものである。

 

関係部署の状況は

軍令部、海軍省軍務局  命令を出したが生産、作戦準備を把握せず、放任。

呉工廠            東洋一の建造能力を持ちながら集中生産する緊急体制を組まなかった。

               命令軽視。危機意識欠如。

第六艦隊          作戦実施部署 七月に回天作戦を承知していながら生産に無関心。

               戦略意識さらに欠如。 

第一特別基地隊      七月十日開設 生産状況把握にも回天基地整備にも無為。

               担当参謀の着任を待つのみ。

搭乗員黒木、仁科     八月半ば、工廠の現場を見て回天が生産されていないことに気付いた。

呉工廠水雷部長、呉模守府参謀長、一特基水雷参謀

               八月二一日会議 回天一型の生産推進を決定。

 

回天の生産関始の遅れが万事、手遅れの連鎖となった。

作戦実施の遅延を招き、搭乗訓練も進まない。

さらに、回天作戦を準備中に米軍が先に比島に来攻、

回天搭載設備を終えていた潜水艦をすべて迎撃に振り向けてしまった。

 

「必死を排除した中央」が、人命を兵器として捨てる戦法を採用するからには、

重要な局面において先制集中、まとめて撃滅する好機でなければ不合理である。

必死、必殺の特攻兵器回天に相応しい唯一の時機は、比島来攻の前、

前進基地ウルシ一泊地に米国の大艦隊が集結したときであった。

日本海軍がこれを断行していれば歴史の形が違っていたであろう。

「回天の大効何ぞ成らざらん」と故・黒木博司少佐が唱えられた肉弾攻撃の対象は、

言うまでもなく敵主力部隊である。

 

また故・仁科関夫少佐が潜水艦内で認められた遺書に

「敵機動部隊を出撃前、その基地に覆滅するが回天用法の第一義たるは言を俟たず。

今好機にして、しかも敵の警戒弛緩し、終夜灯を点じあるにおいておや。

ただただ憾むは回天数の少なきを!今後回天の使用は著しく困難とならん」

心の底からの叫びである。まさしく此のとおりであった。

 

第一陣の菊水隊は十一月二十日敵泊地を攻撃した。

最良の機会を逸してはいたがまだ好機と言えるこの局面にも、無念の事態を招いてしまった。

新兵器による奇襲攻撃が潜水艦僅かに3隻のみという規模面の根本的失策に加え、

(1)発進時刻指定のミス   第六艦隊 真っ暗闇の時刻に珊瑚礁の闇の狭水道突破を指定した。

)発進地点占位のミス   伊47 航路選定不適切の上に発進位置をミス。

                  その結果、発進させた回天4基を珊瑚礁の南外側に撃ち込み、

                  うち2基は同じ場所で自爆した。

)発進設備ミス       伊36   搭載回天4基のうち3基発進不能

)発進前日被発見沈没  伊37   潜水艦内に異常発生か、昼間敵前浮上。

回天12基が内地を出撃したが、発進5基、泊地進入2基、命中は1基のみ。

重大な局面において運用面の失策を多々重ねた。

そのため回天菊水隊の成果遂に上がらず、大型タンカ一1隻の撃沈にとどまった。

 

故・黒木少佐の海底突入、殉職事故もまた兵器生産の遅れが根本原因であった。

大津島の基地で訓練関始二日目の九月六日、

徳山湾内で遭難した樋口孝少佐操縦、黒木博司少佐指導の艇は量産型回天ではなく、

六金物の試作第一号艇であったから性能は不備である。

最大の欠点は、重い酸素気蓄器が艇の後部だけにあり、前部は固定バラストであった。

航走するにつれ艇の後部が軽くなってゆき、艇尾が水面に浮き上がって、

後端に付いているスクリューと舵は効かず、なかなか潜らない。

回転数を上げると艇は猛烈な飛沫を上げ、左へ左へと回頭を続けながら下向きに大きく傾斜がかかり、

やっと潜入した途端に長さ15米の艇が水深12米の海底に突き刺さるのは当然である。

この事実は樋口少佐が描かれた航跡図にはっきりと示されているのである。

荒天が事故の原因ではない。

若しも命令通り量産された型の回天であれば、恐らく発生しなかった遭難であろう。

無念の極みの回天生産遅延であった。

 

回天の洋上航行艦襲撃は、既に戦機を大きく逸した後であろうとも、戦局の止むを得ない推移として、

戦争が続くかぎり軍人である以上は最善を尽くして戦わねばならない。

終戦前の段階では洋上にある日本海軍の戦力はもはや回天を搭載する潜水艦だけであった。

 

戦勢振るわず窮地に立った日本は戦局挽回の大戦略を必要としていた。

国家指導層の一部では「敵に一度大痛撃を与えてから戦争終結に持ち込む方策」を

昭和十九年のうちから模素していたという。

それであれば、制海権、制空権がなくとも海中を隠密裡に行動し、水中爆発を以て大量撃滅が可能な

人関魚雷回天の活用を、何物に代えてでも断行すべきではなかったか。

 

回天作戦は一体、誰が指導し、責任を持っていたのであろうか。

故・黒木博司少佐ほどの先見力、行動力が、

少なくとも回天に関するかぎり海軍上層の各部には無かったのであろうか。

「じっくりと構えて、訓練に訓練を重ねてから回天を使うべきであった」との説があるが、

遅くては意味がない。

捧げる人命は早いほど成果が活きると思わないのであろうか。

 

「人関魚雷・回天」は折角の性能と熱誠の搭素員を備えながら、作戦と運用を誤り、

実現の可能性があった大戦略の成果を遂に挙げることは出来なかった。

戦争の中の失敗は取り返しがつかない。歴史の分岐点を「転落」に切り換えたのである。

 

一国が危難を迎えたとき、国民全員が一致団結、それぞれが最善を尽くさねばならないであろう。

国家指導の要職にある者が将来を的確に見通すことなく、危機感なく、

従来の習慣どおり漫然と成り行きに任せるのでは破滅あるのみ。

 

現在また、小泉純一郎総理大臣は「日本再生に構造改革が前提」と唱え、

衆の同意のもとに国民の先頭に立っているが、指導力が徹底せず、一方抵抗勢力あり、無為無能あり、

眼中派益省益あって国家なく、政官民あげて国家戦略に取り組んでいるとは見えない。

 

過去の痛い失敗を分析、反省し今後に活かすのでなければ、日本民族は同じ愚を繰り返すことになるであろう。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/09