海軍大尉 小灘利春

 

回天の創生

執筆時期不明

 

〇人間魚雷の着想

第二次大戦の戦局が急迫するにおよび、人間が魚雷に乗って敵艦を水中から攻撃し、戦局を挽回しようとする

発想が日本海軍の各方面で生まれた。(当時階級)

1)昭和十八年八月頃、呂号第一〇六潜水艦の水雷長竹間忠三大尉が具申

2)同年暮れ、伊号第一六五潜水艦の航海長近江 誠中尉もまた人間魚雷の採用を血書して請願

3)巡洋艦摩耶の乗組であった橋口 寛少尉もやはり同様構造の兵器を血書要請

4)駆逐艦相の水雷長、三谷与司夫大尉もまた、卓絶した性能をもちながら活躍の機会を失った九三式酸素魚雷の

  体当たり兵器への転換を血書嘆願した。

5)特殊潜航艇部隊である倉橋島大浦崎のP基地においても、若手の艇長たちのあいだに人間魚雷の構想が生まれ、

  研究、討議を進めて採用を提唱した。

  しかし部隊内部での反対、非難もまた強く、上司の承認は得られなかった。

 

日本海軍は伝統的に「決死隊」は認めても、「必死の兵器」は許可しなかった。

そのなかで、生きて還ることのない「人間魚雷」の構想を、幾多の困難を超えて遂に実現まで漕ぎ付け、

その上で訓練の先頭に立ち、最初に殉職した人物が特殊潜航艇(甲標的)艇長の黒木博司大尉であり、

同大尉と一体となって実現を推進し、真先の出撃を果たしたのが仁科関夫中尉であった。

 

○黒木少佐の経歴

黒木博司は大正十年九月十一日岐阜県下呂の医師の家に生まれた。

一家の父母兄弟は深い愛情に結ばれていた。

昭和十三年十二月、海軍機関学校に入校して五一期生となり、昭和十六年一月卒業、戦艦山城乗組となって

開戦を迎えた。

分隊員の先頭に立ち率先躬行を実践して下士官兵に慕われていたが、やがて潜水艦乗りとなることを希望し、

叶えられて昭和十七年七月、潜水学校普通科機関学生に採用された。

国を憂うる情熱に溢れ、最も効果的な兵器として特殊潜航艇搭乗員になることを終始熱望してやまなかった。

卒業の際、黒木少尉は主任教官、校長に、機関科でありながら「甲標的乗員を拝命しなければ一歩も動かない」と

請願して学校を去らなかった。

その熱意が遂に長年の制度を破って異例の措置が実現、勇躍P基地に赴いて、機関科では初の艇長講習員になった。

 

呉軍港に近い倉橋島の大浦崎にある呉海軍工廠魚雷実験部井元事務所、通称「P基地」が甲標的を建造し

訓練する基地であり、のちに第一特別基地隊(本部)となった。

この隊で講習員兼分隊長、整備分隊長となり、整備工場の長としての激務に加え本務の甲標的搭乗員としての

訓練も多忙を極めるなか、黒木少尉は早速、機関科士官の本領を発揮して特潜の改良に打ち込んだ。

初期の動力源が蓄電池だけの、二人乗り「甲標的甲型」にディーゼル機関と発電機を付けて行動範囲を広げた

「乙型」の建造について意見を開陳し、実験搭乗員となって長時間のテストを完遂した。

またこれを改良、大型化した「丙型」、さらに大型化して航走充電を容易にし航続距離を飛躍的に伸ばした

五人乗りの「丁型(蛟龍)」を中心になって計画している。

 

しかし「日本は物量では対抗できず、通常の戦法では到底勝ち目がない。

ただ残された方法は一機一艇の体当たりで敵艦を沈めてゆくことである」との考えに至り、甲標的に爆装することを

上申した。

十八年三月には必死必殺の特攻兵器採用の緊急性を具申する嘆願書を血書して連合艦隊司令長官に提出した。

そのなか、長官山本五十六元帥は十八年四月、前線で戦死を遂げた。

 

黒木博司少佐の印象を一口でいえば「真摯、明朗」であった。

積極的な快男児で真っすぐな感受性に富み、加えて純真で天真爛漫、将校としての強い自覚があり、

職務に対する熱意、研究心は常人を超えていた。

機関科出身でありながら航海、水雷から操縦、襲撃運動といった兵科の仕事まで超人的な熱意と緻密な頭脳で

身につけていった。

機関科は劣悪な環境の艦底で勤務し、修羅場にあっても眉ひとつ動かすことなく配置を離れず、

黙々と死んでゆく宿命にある。

そのため機関部は、魂魄となってのちも国を護る、不屈の精神力と没我の犠牲的精神を平素から養う気風があった。

彼は機関学校在学中、国史学者の東京帝国大学教授平泉 澄博士に私淑し、精神面の指導を受けて日本精神の

遵奉者となり、義につき公のために死ぬ、燃えるような絶対忠の真心を抱いていた。

意見を血書をもって具申したことは七回におよぶといわれる。

神州不滅を信条とし、その憂国の至誠から戦争の将来と国の行方を早くから正確に予見していたことは

特筆に値する。

それに対する危惧と対策には神がかりの感じがあるほど強烈な信念を築き、その点では誰とも妥協することは

なかった。

回天の実現とその成果を彼は第一の目標としたが、畢竟この精神を航空機に発揮せぬかぎりこの国を護持できないと、

航空隊が同調して特攻攻撃を開始するよう大きな期待を寄せていた。

 

一面、彼は読書熱が強く、給料の半分を図書代に充てるほど読書を好んで学識を深めた。

多くの短歌を詠み、長詩や論文を作り、手紙を書き残している。

 

○人間魚雷

兵学校七一期の仁科関夫少尉が十八年十月、潜水学校を卒業して甲標的部隊に着任し、十二月に黒木中尉と

同室になった。

日本海軍の直径六一糎の九三式魚雷は絶大な性能を備える大型の酸素魚雷であるが、レーダーと航空機の発達から

艦隊決戦の時代は去り、折角の威力を活かす機会が無くなって、多数の魚雷が空しく倉庫に眠っていた。

これを人間魚雷として活かす構想がその頃から兵学校第七一期を中心とする甲標的艇長たちの間で浮かび、

黒木中尉らは協力して構造、使用方法を研究し計画を纏めていった。

 

しかし何分にも必死の兵器である。

一回だけの攻撃で終わる戦法を拒否する部隊長たちと、黒木大尉は「特潜ではもう間に合わない」として激論を

戦わせたが、十八年十二月上京、潜水艦戦備を担当する海軍省軍務局を訪問し

「一人一艦、体当たり撃沈して難局を打開する方策」としてこの兵器の採用を懇請した。

しかし「必死」の兵器は日本海軍の伝統に反するとして採り上げるところとはならなかった。

十九年二月、再度上京、陳情したが、おりしもクェゼリン環礁を占領され、さらに要衝トラック島が大空襲を受け

潰滅的打撃を被る事態にと、戦局は悪化の道を辿っていた。

遂に実験艇の試作にまで漕ぎ付けたのであるが、人間魚雷採用の条件とされた「脱出装置」が技術的困難から

頓挫しかけたとき、搭乗員側が脱出無用を主張して、ようやく八月初兵器採用が実現するに至った。

 

黒木大尉は人間魚雷の計画を、要路に次のように説明している。

「このままでは日本は滅亡のほかない。今なにか決定的な手を打たなければ悔いを千載に残すことになる。

私たちは一戦闘員に過ぎないが、我々の立場で最善と信ずることをやりたい。

いつでも命を捨てる覚悟はしている。

しかしささやかな命ではあるが、捨てて甲斐ある方法で捨てたい。

そのためにはこの兵器を考えざるを得なかった」

まさに黒木大尉の考えを端的に表現した言葉である。

 

○回天の訓練開始と殉職

訓練基地は山口県徳山沖の大津島に十九年九月に開設された。

戦局急を告げる折り人間魚雷の戦力化は何よりも急務であった。

大津島基地で搭乗訓練を開始した翌日の九月六日夕刻、風浪が強まるなか、搭乗は初めての兵学校七〇期樋口 孝大尉

が操縦し、黒木大尉が指導官として同乗し夕刻、訓練に入った。

その一号艇は白波のなかに姿を消し、徳山湾の海底に頭部を突っ込んで浮上しなかった。

捜索、引揚げは荒天と夜闇のため遅れ、二人は無念の殉職を遂げたのである。

大尉の書き残した遺書は明治四三年、第六潜水艇で殉職した佐久間艇長と同じく呼吸困難となるなか、

経緯と原因を詳細に記述した上、事故が兵器の今後の発展に支障を来すことのないよう切に願っていた。

 

○仁科少佐の経歴、経緯

仁科関夫は教育家を両親として大正十二年滋賀県大津市で出生した。

昭和十四年海軍兵学校に入校、十七年卒業して戦艦長門、次いで航空母艦瑞鳳に乗組んだのち潜水学校に入った。

特殊潜航艇搭乗員を熱望して卒業後P基地に着任し、ここで黒木大尉と合識った。

黒木大尉の国体観に共鳴し、起死回生の策を論じた。

兄弟以上の親密さで協力して人間魚雷の開発を進め、時には黒木大尉とともに上京し、兵器採用の要請を重ねた。

 

広島県江田島の海軍兵学校の傍に聳える古鷹山は標高三九四米であるが急峻である。

軍神広瀬武夫中佐は九六回登ったと伝えられるが、仁科もこれに近づこうと休日には必ず登った。

在校中に九十回に達し、卒業後を合わせ登山回数は九二回に及んだ。

精神力と身体の鍛練を自らの意思で徹底的にやり抜いた。

学業の成績も常に抜群であった。

大津島で仁科中尉としばらく一緒に過ごした私の印象は「率直で飾らぬ人」である。

大目的を正確に捉え、それに向かって真摯に直進し、権威や体裁などは気にしない爽やかで行動的な人物であった。

 

回天訓練基地では仁科中尉が常に先頭に立って隊を動かし、自分と隊員たちの研究、訓練を推進した上、

第一陣の菊水隊で出撃した。

伊号第四七潜水艦に乗込んで大津島からウルシー環礁に向かい、十九年十一月二十日未明発進して泊地内に突入、

戦死した。

同隊は艦隊随伴油送艦ミシシネワを撃沈する戦果を挙げている。

 

日本海軍の伝統として「指揮官先頭」がある。

仁科中尉は開発者として当然のように真先に出撃した。

あとの搭乗員たちも兵学校、機関学校出身者を先頭に、上の者から、古い者から次々と出撃していった。

 

回天搭乗員たちは、隊内であっても、また潜水艦に乗り込んだのち発進して戦死する日が刻々近づいても、

平素と変わらぬ落ちついた日々を送った。

和やかに談笑する傍ら、航走計画の検討、目標識別の練習に励み、記録を作成し、遺書をしたためていた。

これが国家護持、国民守護の使命に自ら進んで立ち向かう勇士たちの自然な姿であった。

隊員たちの胸のなかには、多くの志願者のなかから選ばれて国と民族に尽くす大きな使命に臨む満足感が

あったからである。

 

回天の搭乗員には多くの志願者のなかから選抜された1,375名が配属され、そなかの89名が戦没、

15名が訓練中に殉職、2名が終戦直後に自決した。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/12/15