海軍大尉 小灘利春

 

射角計算器の話

 

50年以上も前のこと、回天搭乗員諸士の航行艦襲撃訓練を追蹤艇や目標艦から見ていると、見事目標艦の艦底中央を

潜り抜ける凄腕搭乗員がいる一方で、夜の研究会で立ち往生する姿が目に浮かぶほど外れる例も少なくはなかった。

それらの中で「斜進が10度変えてあれば命中した筈」というケ−スが結構多く、「射角の計算を間違えたな」と想像された。

 

回天の操縦は、目標艦の態勢を特眼鏡を通して観測すること自体が難しい上に、各種の操作を一人でやるので非常に忙しく、

搭乗員は頭に血が昇る。

艇内の気圧が上がり、ガスでも発生すればなおさらである。

そこで、頭の働きが少々低下してきても、射角の計算を間違いなく、且つ迅速にする手段はないかと考えた挙げ句、

ひとつの仕掛けを私は思いついた。

特眼鏡の左右旋回角度を見るために、回天の天井、と言ってもすぐ目の上の特眼鏡の取り付け部に真鍮製のリングがあり、

5度単位で左右各180度の方向を示す刻み目が切ってある。

これと同じ刻み目を特眼鏡の鏡胴側にも付けて、特眼鏡を一杯上げた状態でこの二つの目盛りを合わせれば、

計算尺と同じ原理で加減算が出来ることになる。

そこで白い厚紙を切って幅1センチの帯をつくり、図の様に眼鏡部の上の鏡胴に巻き付けてセロテ−プで止め、

リングと同一の角度の刻み目を左、右で赤、黒に色を分けて書き込んだ。

昇降ハンドルを廻して特眼鏡が上がると、上のリングとピッタリ合って、しかも特眼鏡の把手を左右にグルグル廻しても

ずれたりしない。

これを使って斜進角を計算する方法は、例えば図のように右28度に反航する目標艦を見て、射角を大体20度と判定すれば、

取るべき斜進角は右に48度と、特眼鏡の根本の目盛りで即座に読み取ることが出来る。

同航ならば、赤と黒で差引の右8度と読み取れる。暗算も、筆算も要らないのである。

正確な射角は、潜入し終わって、回天が新しい設定針路に向け回頭を続けている間に、落ち着いて射角表を見て

電動縦舵機の旋回角度を修正すればよい。

 

(注:「射角」は魚雷射法でいう正規のものを表す場合のほか、回天隊では紛らわしいが習慣的に、これに方位と旋回圏修正量を

.  加味した「斜進角」のことも同じく「射角」ということがあった。

.  搭乗員たちは目標の態勢と距離により斜進角を読み取るために「ダンゴ表」なる簡単明瞭な図表を作っていたが、

.  これでいう射角表は正しくは斜進角表である。但し私が上記でいう「射角」は正しい意味の射角である)

 

テストを繰り返した結果は実に具合がよいので、整備員に頼んでブリキ板に白いペイントを塗った、きちんとしたものを作って貰った。

後ろの方で小さいビスとナットで止めてあった。

これを勿論、自分の回天の搭乗訓練にも使ったが、大津島の発射場の2階にあった2台の机上襲撃演習機で毎晩のように練習した。

そこの特眼鏡に都度この計算器を取り付け、目標の態勢を色々と変えて航行艦襲撃を試みるのである。

特に、ウネリのある海面やイルカ運動中の観測を想定して、私は観測時間を2秒だけに限って練習した。

確信が持てなければ、もう1−2度、2秒間の観測を繰り返せばよい。

同時に、襲撃の際は観測し終わってから潜入するまでの秒時を極力短縮しなければならない。

私は、速力を落としてから浮かび上がる前に特眼鏡を上げてしまい、潜入するときは特眼鏡を上げたままで潜り、

速力が上がらないうちに降ろした。

私はこの操縦方法を自分の訓練の初期からやっていたが、「特眼鏡が曲がるから潜入する前に必ず下ろせ」との指揮官

板倉光馬少佐の厳命に違反するものであったから、人には黙っていた。研究会でも口に出しての発表はしなかった。

私は回天隊に来る前、重巡洋艦足柄で測的指揮官をつとめ、針路と速力を目で判定する方法を研究していたので、

少なくとも机上襲撃では楽々と、巧くやれたと思う。

大津島の発射場の2階に、私ほど通った搭乗員はいないであろうと、ひそかに自負している。

 

さて、航行艦襲撃の訓練は何時から始まったか、記憶がありませんか?

回天の攻撃目標を洋上の航行艦に転換することは鳥巣参謀の戦後の著書では20年4月16日に決定したとされており、

その天武隊の各艦は4月20日から出撃を開始したことは事実である。

しかし、決定したら直ぐにやれるものではなく、洋上を航行する目標に対する襲撃訓練そのものは、3月13日光を出撃した

基地回天隊の白竜隊(第1回天隊)が、当然ながらその前に充分重ねていた。

更にその前の2月20日、硫黄島に向かった千早隊でも、川崎順二中尉ほかが既に航行艦襲撃の訓練をした上で出撃している。

確かなのは、金剛隊に参加した潜水艦の攻撃状況報告があった直後の2月5日には、大津島で何人かが航行艦襲撃訓練を

実施し、命中したか外れたかの成績が私のメモに残っている。

その前既に訓練を始めていたことは間違いない。

そもそも、19年9月回天の訓練がスタ−トしたころ、指揮官板倉少佐が回天の使用方法について講義され、

泊地内の停泊艦攻撃と並べて、航行艦に対する攻撃要領を既に解説しておられるのである。

そして、第1次攻撃の菊水隊出撃搭乗員の選考が行われたとき、板倉少佐は私に対して

「最初は停泊艦攻撃、第2撃は航行艦襲撃である。君はどちらを希望するか?」という形で質問をされた。

従って当初から航行艦が対象に入っていたことは確かであろう。

但し、その頃「2回目は航行艦」の方針がどの程度に固まっていたものか、今は明らかではない。

現実には、第2次の金剛隊は潜水艦6隻、回天24基をもって再度、警戒厳重な敵泊地を狙う停泊艦攻撃を踏襲し、

期待に背く結果に終わった。

 

航行艦襲撃を準備することになって、大津島では練習生全員を集めて私は射角表の作成方法を説明し、

皆で作図、計算するよう課題を出した。

「各自で」と、試験するような指示はしなかったし、「総員でひとつの結論に纏めるように」とも言わなかった。

色々な解答の出方があってよいと思っていた。

その時期は遅くとも20年1月であった筈であるが、私は19年の12月であったような気がしてならない。

その根拠のひとつは、兵舎のなかで大きな三角定規を動かして射角表を作成する作業をしていた搭乗員たちのなかに、

12月30日にグアム島へ出撃した故三枝直少尉の姿が目に浮かぶからである。

しかし断定できるほど確かな記憶ではない。

どなたか、この時期に御記憶があればお知らせ下さい。

因みに、射角表をグラフで表示する方法を私は独自に試みた記憶がある。

1枚の方眼紙の上に目標艦の針路に対する速力別の射角の曲線と、距離に応じた旋回圏修正角の曲線を

それぞれ色を変えて描き、別々に数値を求めた上で合計するようなものであったと思うが、資料が今は残っていない。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2008/08/17