海軍大尉 小灘利春
回天作戦に於ける戦果 発表について
平成12年 6月 日
戦時中、日本海軍が発表した回天作戦の大きな戦果が、実際は少なかったことが戦後になって判明した。
発進した各回天の行動が今なおすべてが明らかになってはいないが、誇大発表の結果になったことは確かである。
回天作戦の戦果判定と 発表の事情は次のとおりである。
1.回天の戦果を報告、判断する各段階の状況
. 1)回天を発進させた潜水艦の航海長が報告書の原案を作成する。
. 2)潜水艦長がこれに目を通し内地帰還後、自艦の「戦闘詳報」を艦長名で第六艦隊に提出する。
. なお艦長は概要を「戦闘速報」として攻撃の2、3日後に洋上から打電する。
. 3)等六檻隊司令部では各潜水艦の戦闇詳報をまとめ、他の通信や情報と合わせ、作戦毎に「第六艦隊戦的詳報」を作成する。
. 戦果も評定してその中で報告される。
. 戦闘詳報の作成作業は通信参謀が担当する。
. 出来上がった文案を先任参謀、参謀長が目を通し、第六艦隊司令長官名の潜水艦部隊の公式報告書として、
. 所属する連合艦隊にこの戦闘詳報を提出する。
. 4)連合艦隊司令部は戦果を査定し、評価すれば表彰する。
. この文書は上層の軍令部、大本営へ届けられる。
. 菊水隊の場合、連合艦隊司令長官が昭和19年12月8日「感状」として戦果と功績を海軍部内のみに周知し、
. 金剛隊では昭和20年2月11日、同様に内部周知だけを行った。
. 5)国内一般に発表されたのは海軍省発表により昭和20年3月26日に「神潮特別攻撃隊」の名前で各新聞に
. 掲載されたのが初めてであり、戦時中の民間発表はそれだけであった筈。
2.戦果判断の状況
a;碇泊艦攻撃の場合
. 1)回天搭載潜水艦は回天発進後、通常潜没したまま敵地を離脱し帰投するので、戦果を直接視認することは困難である。
. 浮上航走し、又は潜望鏡て爆発を望見できればまだよいほうで通常は無理である。
. 爆発音を遠くに聞く程度に止まり、戦果を確認することが出来ない。
. 潜水艦は概ねそのとおりの事実を報告している。
. 2)第六艦隊司令部は各艦長の報告に基づき、攻撃の前と後の飛行機偵察の報告や無線情報など可能な限りは調べた。
. 攻撃三日後の飛行機偵察で在泊する主力艦船の減少は判ったが、それが撃沈であるか出港であるか。
. 敵方の状況が殆ど摘めないままに、計画と報告、情報から総合判断して「当然こうなった筈」と想定した内容の戦果である。
. 誇張を特に意図したものでなくても、希望的観測に偏りやすい。
. 菊水隊各艇帰着後の昭和19年12月2日に開催された「菊水隊作戦研究会」の席上、通信参謀が、発進した回天5基の戦果を
. 「正規航空母艦3隻、戦艦2隻轟沈と推定する」と声高らかに読み上げた。
. その内容は事前に第六艦隊司令長官まで当然報告し了解を得た上である。
. 金剛隊の場合も戦闘詳報で、発進した回天および未帰還潜水艦の搭載回天の全部計18基が相応の戦果を
. 挙げたものとして艇種、隻数を挙げて報告された。
. 第六艦隊司令部に於いても業務分担は縦割りであって、戦闘詳報の作成に当たり回天作戦を担当する水雷参謀を
. 通さなかったという。
. 当の水雷参謀は回天作戦を起案し、細目まで決めた命令を潜水艦長たちに事実上出しながら戦闘詳報作成には関知せず、
. 今も「掩は戦闘詳報を見たことがない」と言う。
. 不合理なシステムであった模様。
. しかし目を通したところで別な判断材料はなく同じことであったと思われる。
. 3)菊水隊の連合艦隊司令長官の布告は戦闘詳報どおりであった。
. 金剛隊の連合艦隊布告は「多大の戦果を挙げたり」と、具体的な記述は省いているが、戦果を回天の数だけ書き上げれば
. 雑多な印象になるための省略と思われる。
. 連合艦隊および上層の各機関は検証の方法もないまま、誰も手を加えることがなかった。
. 既に最大限の戦果を見込んだものであったから勿論、好都合な内容である。拡大する必要も、余地もなかったであろう。
. そのまま連合艦隊司令長官の感状として全軍に布告された。
. 4)国内発表は連合艦隊布告を簡単にしたもので、戦果については修正がない。
. 結局は「推定」である原案どおりに国内に周知され、それが残ることになった。
. ○錯誤の原因
. 回天作戦実施部隊である第六艦隊の、幕僚のなかで一番若く、末席の一参謀の推理がそのまま罷り通ったのである。
. 事実との大幅な相違を来した直接の原因は報告書作成者である通信参謀にあるが、当然挙がっていた筈の戦果を
. 雲散霧消させ、食い違いの根本原因を作ったものは回天作戦担当参謀と潜水艦長それぞれのミスである。
. (そして彼等は戦中戦後も現在も、それを自覚していない)
. 泊地を攻撃する回天にとって最も重要且つ困難な課題は狭水道の通航である。
. 菊水隊、金剛隊とも、その時刻を真っ暗闇の時刻に指定する大失策を第六艦隊の回天担当参謀が犯した。
. 南洋のリーフの上には椰子の林が平たく長く連なっている。
. その何処に通るべき水道があるか、月もない暗夜、人間の眼で見つけるのは無理である。
. 潜水艦ならば沖合で停まって夜明けを待つこともできるが、回天は 機械を停止できない。
. そして燃料が切れれば、全てが終わるのである。
. 回天搭載潜水艦もまた、自艦位置を間違えて発進させ、泊地南部の珊瑚礁の外側に回天を撃ち込んだ。
. これら錯誤の重複が、あたら若人が乗り込んだ回天を自滅させ、菊水隊は僅かに油送艦1隻の撃沈にとどまった。
. 金剛隊の各艦についても同様であった。
. 泊地攻撃の場合、回天の目標は空母、戦艦であり、戦果の有と無の差は大きな意味を持つ。
b:航行艦襲撃の場合(天武隊以降)
. 戦闘状況の報告と詳報作成の各段階は従前どおりである。
. 1)潜水艦長は洋上において故船団または適当な目榛を発見すると回天を発進させ、その経過、戦果の戦闘速報を
. 電信で報告、帰着後は戦闘詳報を提出する。第六艦隊は回天搭載潜水艦に対して戦果の確認を強く要求した。
. 2)第六艦隊は発進した回天がそれぞれ戦果を挙げたものとして報告、未帰還潜水艦の搭載回天についても
. 回天発進後の潜水艦沈没とし相応の戦果ありとして処理した。
. 連合艦隊はそれを全軍に布告した。
. 最終の多聞隊の頃になると、終戦になった為、乃至は切迫した戦況から潜水艦が 戦闘詳報を提出していない。
. また第六艦隊の戦闘詳報は作成されたのか。
. 作成したにせよ終戦の際焼却処分したと思われ、我々は見ていない。
. ○錯誤の原因
. 航行艦襲撃の際、潜水艦は聴音で回天と敵艦の推進機音を追尾し、また潜望鏡による視認に努めるが、
. 現実問題として少数の例以外は命中状況の確認が困難であった。
. 轟隊伊36潜は池淵艇が米輸送艦を攻撃中、状況を観察している間に背後から米駆逐艦に急襲され窮地に陥った。
. 多聞隊伊58着は林艇の水上機母艦攻撃を遠くから潜望鏡を高々と上げて観察し、見事命中撃沈と報告した。
. 実際は敵艦に水柱が重なるのを見たもので、回天は命中したが不発、自爆していた。
. 艦長はじめ乗員の心情としては、艦内で一緒に生活していた仲間が自ら生命を捧げ発進して行ったのであるから
. 「戦果不明」と報告するには忍びない気持ちがある。
. また戦果は自艦の功績にもなる。それらに依り判断を誤った例があった。
. 「万能の兵器」なるものは存在しない。回天とて同様であるが、無理な状況でも発進させた艦長がいたようである。
. 目標の喫水を誤判断したと見られるケースも多々ある。
. これは指導不足もあろう。
. また発進後、短時間で爆発し、命中は間違いないと見られるのに米側に記録がないものが多い。
. 回天による損害とは考えなかったかも知れない。
. 洋上を航行する艦船を攻撃する場合、回天発進命令と戦果の判定は殆どが潜水艦長の一存になる。
. 戦果は搭乗員の能力と運にもよるが、戦果の判定と報告は艦長次第である。
. 結果的に航行艦攻撃の場合は特に、回天の戦果発表が誇大であったとすれば潜水艦長に原因があることは確かである。
. しかし殆どが錯誤、誇張或いは「お情けの戦果」であったとするのは酷であろう。
. 今後とも調査を広げ個々の回天の終末を確認する必要がある。
3.発表戦果に対する反応
一般の回天搭乗員たちが発表された大きな戦果を喜び、気勢が揚がった。
しかし、同時に安易に陥った弊害もある。
発進装置など目に見える技術的な問題点は研究会の議題になり論議されたが、戦闘の詳細な経過、状況の説明は殆どなかった。
実際は判らなかったからでもあろう。
我々に対する艦長報告は状況を正確に伝えることよりも心情的な要素が中心であった。
指導的立場の搭乗鼻としては「全艇が大戦果を挙げるべきである。
そうであって欲しい。
しかし全部が全部、旨く行ったか」の不信の思いもあった。
確かでない戦果の大小ではなく、疑問点を示されたほうが寧ろ搭乗員の研究心、対抗策の探求を呼び、実際の結果が
よかったと私は信じている。
当時の日本にとって回天こそ最高、不可欠の兵器であるとの我々の信念は揺るがなかったであろうから。
回天搭乗員の募集については、士官、予科練出身下士官とも昭和19年9、10月中に殆ど発令が終わっているので、
戦果の大小は関連がない。
一般国民への発表は戦意高揚が目的であろうが、その頃は実感の伴わない誇大な戦果の公表が続いており
「肉弾特殊潜航艇」の大戦果は明るい報道ではあっても詳細の発表はなく、どれほどの効果があったものか判らない。
4.楽観的、或いは意図的に誇大し、回天作戦と特攻の拡大を企図したか
第六艦隊としては戦闘詳報に作戦の結論をともかく書かなければならないので「任務を十分に履行した」かのように報告した。
手柄にしたい気持ちも多分にあったと思われる。
本当の事は、国内では誰にも判る筈はなかった。
その、軽い気持ちで調子よく書き上げたかのような試案がそのまま素通りしていった。
そのため実に楽観的で大袈裟な戦果発表になったが、上層の機関が別段それ以上の戦果拡張、誇大化をした形跡はない。
上層部はこの戦果によって回天作戦を拡大し、特攻を推進することまで考えていたであろうか?
それほどの判断をしたかについては疑問がある。
さらに疑問なのは、自ら発表した戦果を自身は信じていたのであろうか。
言葉の上だけで、それによって作戦方針を修正したようには思えない。
海軍全体の反応は、昭和20年の戦備優先順位が蛟龍、海龍に次ぎ回天は第三位であった。
他の諸要素もあり本土防衛の面での評価はこの順になったと思われる。
日本の上層部こリーダーシップはあっただろうか。
少なくとも回天作戦に関しては、その名のとおり国難を救う大逆転を図る戦略を強力に指導し、貴任を持つリーダーが
いたとは言えない。
「危機感はあるが、成り行き任せ」の無責任体制で、各層とも上を見るばかりではなかったか?
日本人は戦中に限らず今でも監査、検証が不得意、不熱心であるが、日本海軍の部下を信用する善意、度量が
全体の作戦を誤まらせた例は数多い。
回天作戦に於いても戦果の検証、監査の努力を怠り、疑問符さえ付けなかったことは大失敗であり、後世に残る信用失墜となった。
快い内容の報告として歓迎した海軍の上層部が故意に戦果を誇大にしたとは言えない。
しかし無検討、無批判であった責任は問われるべきであろう。
誇大報告の根本的な因となったのは、上に指導力なく、回天を知らない一部の参謀、潜水艦長によって回天作戦が運行された
ことである。
最も重要であった戦略的な配置に日本海軍は「適材適所の人選を誤った」と言えるであろう。
当時、日本海軍が洋上で戦う手段は回天以外には無くなっていた。
航空に於いても神風特攻が最も効果的な戦法になっていた。
特攻は追い詰められた結果であり、戦い続けるかぎりこれ以外には打つ手が無かったのが実情であろう。
本来ならば上層部自体が早くこの窮迫事態を見越し、回天作戦の準備を先見性を以て急ぐべきであった。兵器のみならず、人も、組織も。
更新日:2007/10/21