海軍大尉 小灘利春

 

回天の中の生存時間

故池淵信夫少佐の想出

平成 7年11月10日

 

昭和19年9月はじめ、徳山沖の大津島に創設されたばかりの回天隊基地に、われわれ潜水学校12期普通科学生からの

転任者7名が着任した頃、既に到着していた搭乗員は兵学校が70期から72期まで、

それに機校51期と53期を合わせて計13名のほか、兵科3期予備士官の少尉14名であった( 当時階級 )。 

搭乗員はこれで総数34名になった。

 

着任早々の、遭難艇捜索から始まる慌ただしさが一段落したとき、私はたまたま士官宿舎の前で一緒になった池淵少尉に、

多少気になっていた事を尋ねた。

「着任されたのはいつですか?」と。

すると池淵さんは、にこやかに微笑んで、 「同じ日です」と答えられた。

明るい陽光が印象に残るひとときであった。

早く来た者が、何となく優位に立つ。日本ではどこでもそういう傾向があるが、軍隊では先任順序があっても、

同じ階級では特にその心理が強く作用する。

私は、その言葉通り同じ日に着任したものと思い込み、戦後も最近まで信じていた。

当時の3期士官のひとり、松岡俊吉氏に戦後初めて会った時、

「大津島に到着後、訓練開始まで1週間ほどあって、○六金物の模型で研究していたように思う」との回顧談に、

「そんな筈はない。訓練開始と同じ日の着任と聞いている」と私は強硬に反駁してしまった。

多くの出版物に書かれているように「訓練開始当日の9月5日に、回天3基とともに搭乗員、整備員が到着した」が

定説であった。

しかし事実は兵科3期が回天とともに到着した9月1日に開隊式が行われたのであって、5日の訓練開始よりも充分早かった。

池淵さんはきっと、この心理に気配りされて、穏やかな言い方を自然に選ばれたのであろう。

そんな配慮のお蔭もあってか、私共は3期の予備士官の方々とは、同じ仲間として仲良くさせて戴いた。

この頃になって、3期14名の着任日について各方面に照会したところ、藤田克己氏から当時の経緯の、きちんとした資料を

頂いてハッキリし、今更ながらに、故池淵少佐の温かい御人柄が身に染みて伝わってきた次第である。

 

訓練開始の直後、大津島分遣隊の指揮官板倉光馬少佐は搭乗員全員を士官室に集め、

「此処にいる者は、総員、1カ月後に敵艦隊めがけ突入する!」と、腹の底まで響く大音声で宣言された。

全員は粛然として聞いた。戦局急を告げる折から、当然であろう、と我々は受け止めた。

しかし同時に、搭乗員それぞれの生命は、あと30日で断ち切られることになる。

自分自身どう在るべきか。

人は何のために生きるか。命を捨てる意義は何か。

それらの整理、結論づけが各自で心のなかで急いで始まった。

それとともに私の場合、命を無駄に捨てるのは厭であるから、どんな状況になっても必ず命中するために、

兵器の機構に精通し、性能を充分に発揮させせねばならぬと考え、これを当面の第一目標にした。

 

目の前に起こっていた殉職に対しては、自分の不注意によって事故を起こし、殉職してはならないが、新しい兵器に

危険はつきものであると考え、日記帳に

「研究の為には生命の危険を冒しても、断行するを要することあるべしこの時、若しその人なくば、我進みてこの任に当たらん。

我が命すでに捧ぐ。

名また惜しむところに非ず。

我が死、いくばくなりとも貢献するところありて、礎の一石ともなるを得ば、以て瞑す」と書いて、

危険なテストをやるときは、私が買って出よう、と心に決めていた。

 

それから間もないころ、研究会の席上で「回天のなかで、どれだけ生存出来るか」という論議が、改めて始まった。

密閉した艇のなかでは、先ず空気、即ち酸素量、炭酸ガス量、それに温度、飲料水、食料などが、或いは複合して、

生きていられる時間には、自ずから限界がある。その限度を、人体実験してみようと言うのである。

炭酸ガス吸収装置は既に、最初の事故の直後に採用が決まっていた。

その実験は是非必要だと思った私は、名乗りを上げようと腰を浮かしかけた途端、隣に座っていた池淵少尉が

「私がやります」と手を挙げられた。

穏やかな声音であっが、論議の流れに乗った、ごく自然な発言であったので、そのまま決まってしまった。

「参った。立派な方がおられるな」と私は思った。

 

魚雷調整場の横の、通路におかれた回天の座席に池淵さんが座り、ハッチを閉めて耐久実験が始まった。

通りがかった仲間が、ハンマ−で操縦室の横あたりの鉄板をコンコンと叩くと、内から応答がある。

直ぐにしっかりと叩き返すようなら「当分は大丈夫だな」と安心する訳である。

計画時間を充分に過ぎて、実験は無事終了した。

何時間、内に居たか、また何時間生存できるか、と言う此のテストの結論が、いま記憶に無いのが残念である。

 

佐藤勝美兵曹であったと思うが、訓練中荒天のため行方不明となり、捜索の結果1昼夜の後、かなり遠く流された場所で

発見された。

本人は至極元気であった。

浮上状態であったので、操舵用圧縮空気のタンクから空気を少しづつ艇内に放出し、時々ハッチを緩めては換気していたと

報告があった。

若しも途中で寝込んでいたら駄目だったかも知れない。 

 

20年1月13日、その日は大津島で午後から訓練に出た回天は全部が遭難してしまったほどの、急激な天候悪化であった。

色々な不運が、この時は偶然に重なってしまったが、一夜の漂流をした艇で、殉職者2名を出してしまった。

私自身、徳山湾の北口で海底に突き刺さって、搭乗開始から5時間、同乗者と二人で中にいたが、後になるほど時間が

速く過ぎるのを感じた。

空気中の酸素が減少するにつれて、頭と身体の働きが気付かぬうちに低下し、感覚も無くなってゆくのであろうか。

この時は経過の記録は書き留めたが、まだ遺書を書く気分にまではならなかった。

そのとき私が、僅かの間隔で時計を見たつもりなのに、30分も経っていた。

上記の1月の遭難者は記録を一切、残していなかった。

 

後に光で遭難した和田稔さんの場合も、文章をよくする人なのに、書き残したものが全く無かったようである。

これには別段、深い意味があったものではないかも知れない。

海底に突入し、艇が動けないので、取り敢えず非常糧食でも食べて、ゆっくりと救援を待つつもりの間に、

いつしか心の動きが緩慢になってゆき、遂に眠ってしまったのではあるまいか。

1人では、2人でいるよりは退屈もする。

差し出がましいが私には、自分の経験に鑑みて、そのように思われてならないのである。

 

艇内生存の限界テストは、小さな電灯が一つだけの艇内で、狭い座席に長時間、ジッと座っているだけでも苦しい。

暑くても寒くても厭な筈なのに、その上結構、危険があった。

ハッチを開閉するハンドルは頭の直ぐ上にあるから、危ないと思ったら自分でハンドルを廻せばよいが、果してそのとき、

気力体力が残っているかどうか?

係が時々やってきて、ハンマ−で様子を確かめてくれる筈ではあるが、自分の仕事にトラブルでもあれば遅れるかも

知れないのである。

この様な生命の危険を伴う耐久テストを率先して引受け、平然とこなした池淵さんに、その時以来、我々の及ばぬ

スケ−ルの大きさを感じ、尊敬している。

 

池淵さんが、戦中、しかも回天搭乗員になってから結婚されたことは、当時全く知らなかった。

身近な同期の人々は御承知だったのであろうが、公表はなく、大津島から光に移られた所為もあって、知る由もなかった。

そもそも当時の我々には、特攻隊員が妻帯するなど、想像も出来ないことであった。

実質僅かに7日間の結婚生活であった由であるが、それだけに自ら国難を救うとの思いは強く、深かったものと、

改めて強い感銘を覚える。

池淵さんは昭和20年6月4日、回天特別攻撃隊轟隊の伊号第36潜水艦に乗って光基地を出撃、

マリアナ東方海域に向かい、6月28日敵船団に突入、散華された。

当時の兵科3期予備士官14名もまた次々と出撃し、終戦時生き残ったのは途中転隊の2人を除いて、2人だけであった。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2008/08/17