海軍大尉 小灘利春

 

特攻の心

 

第一次世界大戦のさなか、フランスの首都パリをドイツの新兵器、大型の硬式飛行船「ツェッペリン」が

空襲した。

迎撃に飛び立ったのは仏空軍の新鋭戦闘機「モラーヌ・ソルウニエ単葉」一機。

飛行船を狙って、携行した二発の小型爆弾を次々と投下したが外れた。

飛行船は悠々とパリ上空に差しかかり、市街めがけて爆撃を始めた。

文明を誇る自国の首都の、自分の住む町の破壊が目の前で始まった。

武器を使い果たした戦闘機の操縦士はたまり兼ねてか、急降下してこの飛行船めがけ突入、

水素ガスを満たした飛行船は大爆発を起こし、火達磨となって墜落していった。

 

第二次世界大戦中、昭和一九年一〇月に比島レイテ湾に侵攻して来た米軍は、周辺確保のあと

ミンドロ島サンセホ市に大部隊を上陸させた。

重巡洋艦「足柄」は軽巡洋艦「大淀」、第二水雷戦隊の駆逐艦六隻と艦隊を組んで月明の一二月二六日夕刻、

上陸地点を急襲した。

米軍は数十隻の在泊艦船を退避させた上、航空部隊と魚雷艇群で阻止しようとした。

米側の記録によればB二五爆撃機のほかP三八、P四七など各種戦闘機合わせて一〇五機が迎撃に飛び立っている。

戦艦と誤認されて集中攻撃を浴びたが、名艦・足柄は爆撃をすべて回避し、猛烈な対空射撃を続けて

殆ど被害を受けることなく、敵の上陸地点に向かって二八ノットの戦闘速力で進撃した。

米軍が折角確保した橋頭塗は一転、累卵の危機に曝されたのである。

このとき、双発双胴のP三八単座戦闘機が一機、

「足柄」に向かって機首の四挺の一三ミリ機銃を撃ち続けながら、そのまま左舷に突入した。

曳光弾の輝く束が低く足柄の艦腹に向けて伸びていた。

厚い鉄板を突き抜けて、機体が後部兵員室の中に飛び込み、航空燃料と携行弾薬で大火災になった。

あと僅か何十センチか上であったら、そこは酸素魚雷一六本を装壊した発射管室だったのである。

世界随一の高性能を誇る九三式魚雷は、頭部の炸薬量が三型では八百キロもある。

次発装填用を含めて三二本の魚雷が並んでおり、高圧の純粋酸素自体の破壊力もまた大きい。

英国王の戴冠式にロンドンまで回航してへ参列し、世界中にその名を知られた、歴戦の幸運艦「足柄」も

《一瞬にして轟沈》は免れないところであった。

足柄は消火作業を続けながら敵泊地に入り込み、照明弾を打ち上げて明るく照らし出された物資集積場に向け、

二〇糎主砲一〇門の一斉射撃で、立て続けに大量の砲弾を叩き込んだ。

敵魚雷艇も高角砲の水平射撃で撃退した。

充分な成果を挙げて引き揚げる途中、米軍機操縦士の遺体を丁重に水葬にした。

足柄も四七名の戦死者を出していた。

殆どは、突入した彼が一人で起した大火災のために斃れたのであるが、

その壮烈な最後に、同じ軍人として敬意を表したのである。

仲間の戦死者と同じく、足柄乗員全員の敬礼を受けて、毛布に包まれた彼の遺骸は南の青い海に沈んでいった。

爆撃で「大淀」が損傷、駆逐艦「清霜」が沈んだが、この「礼号作戦」は戦争末期の数少ない成功を収めた

海上戦闘である。

多くの戦史が、被弾したB二四爆撃機が墜落して、偶々足柄に当たったとしている。

だが、その時の高角砲指揮官はかの目撃者証言によれば、事実は戦闘機のP三八であり、烈しい対空砲火に

被弾していた様子はあるものの、超低空を、全速で飛びながらの、明らかな体当たりであった。

たとえ被弾していても、負傷しても、すぐ近くに味方の飛行場があるので帰れば自分は助かるのに、

この米人パイロットは日本の神風特攻隊と同じ行動をとったのである。

この二つの例は、味方の危機に遭遇して「これが今の自分が取るべき最善の手段である」と咄嗟に判断して、

体当たりを敢行したものと思われる。

 

人間ならば誰でもこのように、自分の身を捨てても多くの人を救う行動に出るであろう。

川に落ちて溺れかかった子供を見た人が、その子の命を救うために、危険を冒してでも飛び込んで

助けるのと同じである。それが人の自然なのである。

この重巡洋艦「足柄」に、私は「回天」の搭乗員になるまで乗っていた。

一九年の六月、敵がサイパンに来攻したとき、陸奥湾にいた足柄は横須賀に進出、待械したが

「あ号作戦」で出動した日本の機動艦隊が敗退したので、むなしく引き返した。

生命線と呼んでいたマリアナ諸島を奪われてしまった。

そのあとは、どうなるか?

敵の根拠地が前進して来たと同時に、ここから我が本土まで、遮る防波堤が何もなくなった。

このまま日本が為すところなく艦艇、航空機の消耗を続けてゆけば、米軍は日本沿岸の何処にでも

上陸できるのである。

本土が戦場になれば日本民族の大量殺戮、国土の破滅となることは目に見えている。

何とかして敵軍の侵攻を食い止める手段はないものか、桶狭間の大逆転を打つ新戦法、新兵器はないのか。

私は日夜焦燥に駆られていた。

 

一九年八月、足柄を退艦して、海軍の一角に「人間魚雷・回天」が出現し、我々がその搭乗員になることを知った日、

「これだ!この新兵器で日本は救われる」と、仲間とともに喜び合い、夜の更けるのも知らず語り合った。

一〇〇本の眼のある魚雷が敵泊地に躍り込んで、大艦隊を一挙に覆滅する光景を一同は胸に描いていた。

ようやく日本の将来に光明を見出すことが出来て、浮かび上がって来た安堵感がこころよかった。

体当たり兵器なら、任務達成の瞬間に自分の肉体は粉々に飛散し、生命は消滅する。

ただ、それで掛けがえのない美しい日本の民族をこの地上に残すことに繋がれば、

一身の辛さにはるかに勝る価値がある。

仲裁役がいない戦争は、どちらかが破滅するまで続く。

そして、敗戦国の悲惨は古今の歴史が示す通りである。

しかも、日本の紙と木で出来た家ばかりの、非戦闘員の市街を爆撃し、焼き尽くすことは、

米国自身が戦前から高言し、日本国内でも書き立てられていた。

絶対、近づけてはならない相手なのである。

 

本来ならば日本の艦艇、航空機が敵艦隊を撃退する筈である。

「生還するすべのない特攻」は考えることもない。

しかし、吾等になお、多くの大艦ありと言っても、底に穴があいて、水が入って来れば沈む。

制空権、制海権に支えられてこその「浮かべる城」なのである。

現実は、圧倒的となって来た戦力の量と質の格差から歯が立たず、敵に近づくことすら出来ない状態になって来た。

本土侵攻を防ぎ止める手段は、最早や我が身を弾丸に代える特攻しかない。

これが当時の日本の若人をめぐる客観状勢であった。

即ち、特攻は一人の日本男児として最大の効果を挙げることができる配置であった。

あの戦局のもと「日本男児として最大の効果を挙げることができる配置」であった。

あの戦局のもと「日本」を護る見地からは、日本人の全体から考えて特攻戦術が最も合理的であった。

効率は最上である。「一死千殺(侵攻軍を)」であり 「一死千生(日本国民を)」であった。

尤も、意識としては、目標は敵艦を沈めることであり、敵の人間が対象ではない。

ひとことで言えば「自分が死ななければ、日本人が大量に殺される」ことであって、

「殺させないために、自分が死のう」という状況になっていたのである。

 

「無謀で狂気」と、今ごろ言うのは当たらない。

事の是非は、その時の状況に身を置いて論ずべきである。

どうしてこんな事になったか、などは別の次元の問題なのである。

命を捨てて他を救うという点では、前記の欧米人の「体当たり攻撃」の例は、日本が行った「特攻」と

基本的に共通する。

異なるところは「偶然の危難に遭遇し、その場の判断で身を捨てた」のではなく、

「自分の国が置かれた現実の情勢を理解して、国と民族を護るためには自らの生命を捨てることが必要、

且つ意義があると判断し、望んで還らぬ任務に就いた」点であり、

その上で「予め命令を受けて、死地に向け出発した」ことであろう。

自殺を禁ずる教義から奨励も出来ないので、欧米では体当たり攻撃が時にあっても多くはない。

むしろ、伏せたという。

だが、日本では七千人近くにも及ぶ若人が特攻戦没者として名を残している。

これほどにも数多く「特攻」のために若人が集まり、組織的に実行した民族、国家は他に類を見ないであろう。

 

特攻を語るとき最も重要なのは、隊員たちが「如何なる状況のもとに、自分が如何ようにあるべきか判断し、

どんな気持ちで死地に赴いたか」という点であろう、と私は考える。

(これに触れない、また正当に伝えないレポートが多い)。

「回天」の場合だけ見ても、特攻隊員の経歴、年齢が色々なので、物の考え方に人により相違があって当然である。

動機となったものは、天皇制、国体を護持する純忠、至純至高の愛国心、

身命を惜しまず戦う日本武士の敢闘精神、戦勢の挽回策、潜水艦の戦力回復、

危難に立ち向かうのが男の務め、親兄弟への情愛から等々。

どの要素に自分が共鳴するか、自分自身を納得させる力があるか、人によって強弱、色合いに差こそあれ、

根底にあって共通するものは肉親、友人など、自らの周囲にある親しきもの、愛するものの生命と平和、

幸福を護るため、貢献できる場にある自分が献身しよう、との思いであったようである。

回天の創始者は皇国の急務として熱誠を以ていくつもの障壁を乗り越え、非常の必死兵器の実現を遂に

成し遂げたが、国体護持の一事だけで献身できた人は、回天の搭乗員合わせて一、三七五名のうち、

数で見れば少なかった、と私は思っている。

 

通常の戦闘で「死ぬかもしれない」のと、確実に生命が断たれる出撃特攻隊員とでは心理状態が全然違う。

特攻隊員たちは、自分の人生がこれっきりになるのであるから、本人の全身全霊を挙げて、本音のところで考える。

受けた教育だけで、すんなりと収まるものでもない。

それぞれに考え抜いた上で「自分は何の為に死ぬ」という死生観を固めている。

固まらないうちに出撃した隊員の心中は無惨である。

特攻隊員となってから出撃まで、飛行機の場合は纏めるのに、或いは日数が不足した例があったかも知れないが、

訓練期間が長い回天の場合、考える時間は充分にあった。

自分自身で納得していなければ、一つしかない生命を心静かに捨てられるものではない。

生あるものの本能である死への嫌悪感をも抑えて、回天の出撃搭乗員が透徹した気持ちで、

潜水艦から発進するときまでの日常を平然と過ごしたと伝えられる。

「それは諦観からではない。人と世に尽くす使命感、満足感からであった」と、

同じ環境を共に過ごした私どもは理解するのである。

 

聖書の一節には「人その友のために己の生命を捨つる、これより大いなる愛はなし」との

記述がある(ヨハネ伝 第一五章)。

死にたくて死んだ特攻隊員は一人もいないであろう。

特攻は、自分に原因があってみずから命を絶つ自殺とは異質のものである。

自分のために死ぬのではない。

心身ともに健全な若人が、ほかの、多くの人々を救うための愛の行動であり、大いなるものへの

文字通りの献身であった。

人間の根幹に基づく徳性と言えるであろう。

「自分さえよければ」というエゴイストには、特攻は出来ることではない。

戦前、日本人は美しい民族であった。

命を捧げても護らねばならないと思うほどの良い国であった。

値打ちがないものであれば、誰も身を捨ててまで護ろうとはしなかったであろう。

この国が将来「特攻隊が要るような事態」になることがあってほしくない。

だが、気持ちの上では、《誰もが、何としてでも護り抜こうとする》善い社会になってほしいと

願うのである。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2008/08/09