海軍大尉 小灘利春

 

入隊の儀礼

平成 7年 8月30日

 

いきなりの殉職に、隊内は悲痛な思いに沈んだ。

しかし、出来たばかりの兵器というものは、新型の飛行機を開発するときに事故がつきものであるように、

いつ、どの段階で事故が起こっても不思議はない。

「屍を乗り越えて改善を進め、目的達成に邁進することが用兵者の責務である」ことは、誰もが心得て

いることである。

たとえ再び事故が起ころうとも、樋口大尉が遺書に示されたとおり「犠牲を踏み越えて突進」する思いは

自然に湧いていた。

一つには、我々が殉職されたお二人と生前面識が無かったことも、衝撃から比較的冷静に立ち直らせたと思う。

しかし、黒木大尉と回天を共に開発された仁科中尉が受けられた衝撃は如何ばかりであったろう。

大津島に人間魚雷の最初の訓練基地が設けられたのは、世界無比の高性能を誇る九三式酸素魚雷の試験発射場が

昭和十二年以来この地にあったからである。

これに付属して呉海軍工廠水雷部の分工場である魚雷調整場があり、二空(第二空気、高度純粋酸素)発生装置

ほか必要な設備が揃っていたので、回天の整備、訓練にそのまま活用できた。

 

当時、大津島の村落からこの諷整場に行くには、海岸を通る道路が無く、勤める島の人々は一旦山のほうへ登って

士官宿舎の横を通り、工場の高い塀の外側の坂道を下って通勤していた。

林の中を抜けて回天隊の兵舎前の広場に出て、士官宿舎の横に出る近道もあった。

女性事務員の何人かがその近道を通っており、今で言えば松坂慶子ばりの、かなり美しい人もいた。

黒木、樋口両少佐が殉職された翌日、或いは翌々日であったか、士官宿舎の二階の窓から石川誠三少尉が、

転落するのではないかと心配して私が駆け寄ったほど体を一杯に乗り出して、

坂道を下りてきたその美少女に向かって「イエーイ」と大声をかけたのである。

私の目の前でアッという間に起こった珍事であった。

誰か見ていたのか、忽ち上級士官から集合を命ぜられて、われわれ兵学校七二期の先着組久住 宏、

河合不死男を加えた九名と、コレス(同年入校)の機関学校五三期の五名を合わせた十四名全員が、

士官宿舎二階の畳を敷いた広間に整列した。

七〇期搭乗員として忽ち一人になってしまった上別府宜紀大尉と、七一期の仁科関夫中尉から

「清浄高潔なるべき搭乗員が、かかる時期において、女性を大声でからかうとは何事か」との激しい御達示。

続いて七一期加賀谷武中尉、帖佐 裕中尉と合わせて四人から二列に並んだ全員が猛烈な鉄拳制裁を浴びる

次第とはなった。

村上克巳、都所静世といった巨漢たちが、足が宙に舞うほどの感じで、次々と目の前で昏倒していった。

われわれの着任直後から慌ただしい動きの連続であったので、板倉指揮官以外は隊員の誰とも挨拶を

済ませていなかった。

はからずも猛修正(鉄拳制裁)が初顔合わせの挨拶となってしまったのである。

石川誠三は兵学校では私と近い分隊にいた。

同期六〇〇名のうち九番で入校した、頭脳明晰で活力に満ちた人物である。

卒業後候補生となって、彼は戦艦山城、私は練習艦八雲で実習した後、揃って当時南西方面艦隊第十六戦隊の

旗艦であった重巡洋艦足柄の乗組を命せられた。

潜水学校普通科学生を発令されたのも一緒であった。

従って彼の性格、平素の言動は充分に承知しているが「誇り高き水戸ッポ・石川」は天真爛漫、形式習慣に拘泥

することがない。

自ら信ずる通りに振る舞い、時に傲岸不遜にも見えた。

この時も、悲痛な雰囲気を無視して、海軍士官ならば、ましてや花と散る日が近い身であれば到底出来そうにない

俗世間的な行為を、彼は平然とやってのけたのである。

戦前、大和撫子は、尊く美しい存在であった。

普通の海軍士官はそのゆえに離れて大切にしようとする。

彼は逆に手を伸ばそうとする、本心、本能に率直な性質なのであった。

私たちが兵学校を卒業して以来、ただ一度の鉄拳であり、またかつて経験したなかで最も烈しかった

この鉄拳制裁は、われわれの不始末を戒めるためというよりも、そのとき私が受けた印象では

「身近な同志であり、最高のリーダーでもある仲間を突然に失った衝撃、悲しみを吹き払い、乗り越えるために、

それに名を借りて七〇期、七一期が自分たち自身を奮い立たせた」という気がしたものである。

以後、大津島での勤務中、誰かが鉄拳制裁を受けるのを私は見たことがない。

 

脱出装置:〇六金物の機構説明

嵐のような鉄拳修正の翌朝、同じ広間で仁科中尉から、われわれ十四名に対し人間魚雷の構造と性能の

説明があった。

机の上に拡げられた、畳一枚ほどもある大きな青写真には「〇六金物」との表題があって、

「炸薬量一トン六〇〇」と、変わった表示で記されていた。

頭部には魚雷と同じ慣性信管、ほかに手動スイッチ用の電気信管があリ、さらに最先端の内側に機雷と同様の

接触式信管、つまり三段構えの起爆装置になっているのが、まず目に入った。

(注:量産型の回天一型以後、接触式の信管は廃止された)

 

次に操縦席を見ると、特限鏡の前の、下部ハッチの上にあたる空間が薄墨のように広く塗り潰してあり

「脱出装置」と記入されている。

しかし構造が書き込まれていない。別の図面があるのか、と思ったが、この種の兵器に脱出装置とは如何にも

不自然であり、無意味である。

折角遠く敵地に乗り込んで行って大きな仕事をするのに、敵艦の前で脱出したのでは、そのあと命中するかどうか、

わかったものではない。

そこで、仁科中尉に「これは一体何ですか?」と質問した。

すると中尉は、つかえた感じで「ウーン、これは・・・、その・・・、何も無いんだ」と答えられた。

当然そうであろう、と私は納得した。

同時に、つい前の日は烈しく鉄拳を振るい、最も勇猛果敢と見えた仁科中尉が、本当は率直で飾らぬ人柄で

あることが伝わって来て、強い親近感を覚えた。

 

図面にあるからには、何らかの経緯があった筈であるが「既に決着済みであり、残った問題はない」と

考えられたのであろう。

仁科中尉は、大目的を捉えて真摯に直進し、権威や体裁などは気にしない、爽やかな人物である。

「思考力、判断力、行動力など、すべてに優れた最も模範的な青年士官」であったと、今も思うのである。

のちに分かったことであるが、「脱出装置」が当初、兵器採用の前提条件であったため、

種々の方式が試みられた。

しかし、いずれも巧くゆかず、人間魚雷の完成が遅れる原因になっていた。

性能低下を必然的に伴うというマイナスもあり、そのうち

「何よりも必ず命中することが最大の要素なのであるから、脱出を考える者はいない。脱出装置は無用」と

する搭乗員側の要求によって、装備を見送る事になったものである。

さきの鉄拳制裁は、艦隊勤務を経てきた少壮士官のつもりの我々ではあるが、充分な根拠があってのことなので、

不服とは思わなかった。

仁科中尉も普通ならば人を殴るような性格ではない。

大津島の先頭に立つ板倉少佐は「猛烈指揮官」の評判であったが、随行して隊内を巡回したことが何度もあったのに、

規則違反が目の前で発見されたときでさえ、名高い鉄拳を拝見する機会は、私には遂に無かった。

だからとて、鉄拳制裁が絶無であったとは言わない。

しかし、日本海軍で最も張り切った部隊といわれた「地獄の大津島」でも、公衆の面前と否とを問わず、

理由もなく人を殴るといったような行為はなかったと信じている。

 

総員突撃の宣言

最初の殉職者の葬儀が行われた直後、第一特別基地隊大津島分遣隊の指揮官板倉光馬少佐は搭乗員全員を

士官室に集め、

「此処にいる者は、これより一ヶ月ののち、総員、敵艦めがけ突撃する!」と

腹の底に響く大音声で宣言された。

一同は粛然として聞いた。

当然であろう。

それでなければ戦局の挽回が間に合わない。

 

それは同時に、一人ひとりの命は、あと三十日で確実に断ち切られることを意味する。

人生の終末に向けての「ファイナル・カウントダウン(最後の秒読み)」が各々の胸の中で、

この時をもってスタートしたのである。

 

任務を達成するためには死をも恐れぬ義務感、使命感を、当然ながら我々軍人となった者は抱いている。

また戦局がここまで窮迫すれば、人間魚雷を操縦して突入することが

「敵艦隊の進撃を食い止めるには最も効果的な手段であろう」と、客観的に見て明らかに判断できる。

否、敵艦隊に近づく方法さえ、もはやこれしか無いであろう。

無念なことであるが、これが日本の国がこのとき置かれていた現実であった。

 

「この上は、自らの死をもって、最大の敵を倒そう」と私は奮い立った。

その為には「如何にすれば回天の性能を最も活かせるか。

その方法を見出し、自分のものにするのが第一の急務であろう」と考えた。

 

そして、心が落ち着いたとき、あたかも走馬灯のように、過去のあらゆる出来ごとが絶え間なく、

とりとめもなく脳裏を去来した。そ

のなかで、あらためて自分の死の意義を、間違いなく見極め、体系付けようとした。

激烈な戦闘場裡ならば、深刻に死を考えることもなく、その暇もないであろう。

ただ最善を尽くすのみであり、生死は運命が左右する結果である。

だが回天の場合、搭乗員が死を定められた時期は飛行機特攻の始まるレイテ攻防戦よりかなり前の、

比較的静かな環境のなかではじまった。

「特攻の時代感覚」は、その頃はまだ一般にはなかった。

しかし、われわれは自分自身で、終末が間近に迫っている人生についてあらためて考え、整理する時間を

持つことができた。

三十日あれば充分に纏まるであろう。

 

何のために生命を捨てるか

回天は通信装置も脱出装置もなく、機械を発動して一度走り出したら停止、再起動がきかない。

母艦を離れたら、あとはただ、燃料が続く一定の時間のうちに、事を成し遂げるのみである。

成否の如何にかかわらず、生きて帰ることはない。

 

大津島の丘に立って、私は波穏やかな湾の彼方に霞む徳山の市街、周囲の島々、遠く連なる山なみを望んだ。

南に北に、行動してきたが、この国の眺めほど穏やかで、こころ落ちつく姿はなかった。

また、この地に住む人達ほど、清らかで和やかな民族は、世界のどこにも無いであろう。

 

「この麗しき日本の国土、美しき日本の国民が、地上から消え失せることがあってはならない。

この善きものを破滅から護るためには、我が身を弾丸に代えても、惜しくはない」。

「幸い、人間魚雷は、ひとりの若人として自分の力を最大に発揮できる、強力な武器である。

我々が、若い生命を捨てることで、敵の侵攻を食い止める以外には、既に道はない』との思いに至って、

納得を覚えた。

しみじみとした実感があった。

懸命に考えたのは三日間ほどであったか、それからは《死》というものが、もう気にならなくなった。

 

食事はひとつひとつ味わって食べた。

「飯とは、こんなにも旨いものだったのか」と目が覚める思いであった。

主計担当者が物資不足のなか、苦労して食料を集め、心を込めて調理をしてくれたのであろう。

食事中「あと何回、飯が食えるのかな」と数えることも、時にあった。

大津島で出された、たしか天丼のようなものであったと思うが、そのとき感動を覚えたほどの美味に

戦後の今、出会うことがない。

当時の主計の方々に心からの感謝を捧げる次第である。

 

この世のことを少しでも多く、広く見ておこう、との気持ちが強くなった。

何もかもが、新鮮であった。

生あるものの総てがいとおしかった。

大津島の士官室に、迷いこんだのか赤毛の子犬がいつもいて「回天」と名付けられ、搭乗員の誰もが

異常なほど可愛がった。

いかつい体つきの指揮官板倉少佐もこの子犬を胸に抱き上げ、微笑みを一杯に浮かべて歩き回っておられる

姿がよく見られた。

士官室のソファにはいろいろな楽器が置いてあった。

私は大抵の弦楽器、管楽器は知っていたが、マンドリンは音楽教育が盛んな中学校でも普通は備えていないので、

私が触ったのは大津島が初めてであった。

 

天皇陛下万歳

多数の兵士が「天皇陛下の御為に」と自分の命を捧げた。

最後の叫びは「天皇陛下万歳」であった。

しかしそれは、言葉通りの意味だけであったろうか。

死の間際にそれ以上の何も、心に浮かばないであろうか。

否、それよりはるかに強い思いが、ひとりひとりにあった筈である。

陛下を通して、父母、弟妹などから始まって、それらに連なる同胞への

「自分の為ではない、他の人々に向けて注ぐ、限りない愛情のために、死ねた」と、私は理解している。

国民の誰もが、只ひとつの中心「陛下」に心を集めて一致団結、それぞれが全力を尽くし、

その結果として、自分の周囲を、愛する者を、護る最大の力が生まれる。

それらの延長線上にある国家、民族の破滅を防ぎ、生存を果たす手段は、国家総力戦の時代にある今、

これしかないであろう。

天皇はまさしく日本人の核心となる「象徴」であった。

 

しかし、手の届かぬ抽象的なものでは、自分の生死が懸かった、土壇場においては

《意識の下にある本能的な、自らを納得させる力》はやはり弱いのである。

より身近なもの、何よりも「最も愛するものを護ろう」との心の叫びが、結局は一番強い動機となるのである。

 

戦場で散った兵士の多くの、最後の言葉は「お母さん!」であった。

助けを求めたのではない。

「母への無限の愛情のほとばしり!」であったろう。

 

私は後に、第二回天隊として八丈島へ出撃したが、遺書は書かなかった。

丘の上から本土を望む自分を描いた一枚の絵に、前記の「国土と国民を護るために我が身を弾丸に代える思い」

を書き込んでいたものをトランクの底に入れた。

それと、兵学校で渡されていた自由日記帳「自啓録」だけを、八丈進出のおり立ち寄った実家に秘かに遺した。

戦後「何のために死ねたか」という特攻の最大の眼目について、生き残った搭乗員たちに聞いたところ、

大体は同じ思いであったようである。

中には「大津島の練兵場の端から徳山の町を望見して悟った」という、私と全く似たような経験を語ってくれた

人もあった。

 

結婚していた搭乗員が二人、出撃して戦死した。大津島に最初に着任した兵科三期の予備士官なので、

二人とも私はよく知っているが、結婚のことは戦中は聞いたことがなかった。

「大和撫子」へ無限に広がる夢のような憧憬を抱いていても、限られた日数の人生しか残っていない

回天搭乗員の場合、結婚など夢にも考えられぬことと私は思っていた。

しかし、故・佐藤 章大尉は妻帯者でありながら回天を志願されていたのである。

故・池淵信夫少佐は光基地で訓練中の十九年十一月に挙式された由であるが、その後に三回も繰り返し出撃された

ことから、結婚生活は実質一週間にも満たなかったと言われる。

婚約者や恋人のいた搭乗員も、決して少なくはなかったと聞く。

愛するものを守る為なればこその捨身、との思いが端的に現れた例、と言えるであろう。

 

(付・天皇陛下)

私は宮中で拝謁を受けた体験がある。

肖像ではない、本物の陛下と直接に、目の前でお会いしたのである。

戦前では、普通の人には稀な経験であろう。

昭和十八年十一月十八日、われわれ兵学校第七二期の少尉候補生は拝謁を仰せ付けられて、

航空、水上とも全員が上京し、宮中の賢所に整列した。

私は列の中央の、かなり前のほうに立つことができた。

音ひとつない厳粛な雰囲気のなか、陛下は左手の廊下を「力ッ力ッ」と、高い靴音を立てながら足早に広間に入られ、

壇の上に「タタッ」と勢いよく上がられて、われわれの方へ向きを変えられた。

海軍の第一種軍装をお召しになっており、室内であるから帽子はなかった。

一同は敬礼、注目した。そのとき陛下は何と、両膝を「ガクガクッ」と動かされたのである。

「ああ、とんでもないものを見てしまった。陛下もやはり生身の人間だったのだ。

神様という抽象的な存在ではない。お目にかからなければよかった」とその瞬間、落胆をおぼえた。

だが続いて、親近感が心の底から烈しく湧いてきた。

昭和天皇を「神として崇拝」するのではなく、ずっと「敬愛」の思いであった。

自分ひとりだけの、当時としては異常な形であったが、それ以来、「天皇は天に在る神ではなく、偶像でもないが、

背後には一億の民がある。

この身近な人柄の天皇に尽くすことが即ち国家引いては親兄弟に尽くすことである。

日本のすべてが一体なのである」と密かに考え続けた。

後に八丈島に進出して待機中、内地から来島した新聞記者たちが「死生観」を質したとき、

私はこの独自の陛下への思いを発言したかった。

しかし苛烈な戦時中のこと、彼等に説明しても素直に理解されないかぎり、後世に曲げて伝わる惧れが大きいと

感じたので「特攻隊員はそれぞれに強固な死生観を確立している。しかし言わない」と突っぱねてしまった。

戦中も今も、私は昭和天皇を何ものにもまして、大切に思い続ける一人である。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2008/02/23