甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第20号/平成 5年

角田 登

松山空− 上海空−青島空

「上海雑感」

  

青黒い東支那海の波涛にもまれ、黄濁した河口とおぼしき茫洋を遡っても、河という実感はない。

黄浦江に入って初めて大河に入るという感覚である。

当時毎日の飛行作業で空から眺めた長蛇の如き屈曲は、戦後はじめて空路上海に降りる時、胸迫る興奮とともに

眼前一杯に広がった。

国際都市上海、外国に違いないのだが、何と摩詞不思議な懐かしさと拘泥りの呼び名であることか。

公太の埠頭に印した大陸への第一歩、早や半世紀になんなんとするこの地での青春の歩みである。

出迎えの上海航空隊の教官、教員、大塚大尉の長髪を軍帽からはみ出させた豪放な風貌、

林田班長らのひきずる巨大な精神棒、色どられ、磨き込まれたバッタは、この後、日夜骨髄に震透することとなる。

「飛練地獄」の幕開けである。

現在の宝山製鉄所の偉容は無かったが、建ち並ぶ倉庫群、林立する巨船のマスト、クレーン。

飛行場の彼方に望見した海都上海の姿は、今も変わりない。

数回訪ねた新中国だが、暇を作っては彷徨する濾北の地、虹口公園(新公園)や五角場(星が辻、五条ケ辻)の辺り。

市政府の跡や、競技場のスタンド、それらしいドーム型の格納庫とおぼしき建物、どれもこれも、現在江湾体育場や遊園地に

なっているのだが、新旧とりまぜて垣間見える。一種異様な興奮と懐旧と拘泥の一刻である。

チャートに線を引き、偏流を記入し、射撃爆撃、航空写真の撮影と寧日無き訓練に追われた昭和十九年の夏、酷暑、

飛行場での前支えで流れた汗が人型にアスファルトを漏らしていた。

呉港、松江、崇明島、大場鎮等々、我々の戦場は即ち中国民衆の解放戦の場でもあったのだ。

「亡国日本」「抗日救国」などと激書された兵舎の壁や便所の戸、今なお鮮明に眼底に蘇る。

悔恨と反省の戦後の我々の精神史は、長い歴史を綴る中国大陸の激動の一駒にすぎない時の反映だが、

少年達の純情の夢を無慙に潰えさせたエネルギーは何か。

誰が侵略を企画し征服を願ったであろうか。

「興亡の夢幾春秋、我らが父が又兄が、血潮に染めしいくそたび」 と上海健児の歌ったのはすべて虚偽か迷妄か、

東洋平和や、世界静謐の願望こそ、この地に青春を刻んだ若者の真の姿であったはずだ。

どこでどう狂ったのか、アメリカまで敵にまわした激戦の渦中に放り込まれていたわけだ。

 

空襲で夜空をこがして大場鎮辺りの炎上する光景、P51に銃撃されクモの子を散らすように逃げた兵舎脇の広場、

李香蘭の慰問や宮様の閲兵、上海陸戦隊での吊床訓練など記憶は人によって区区だが、上空時代は限りなく懐かしい。

とまれ我々飛練三十八期が青島へ去った直後、上海練習航空隊は幕を閉じたという。

昭和二十年二月一日である。幾度目かの訪中で、上海から船で揚子江を遡り、南京へ向ったが、長江大橋をくぐって下船した

下関の船着場は、青島への長旅の途中、浦口へ渡った折の場所ではないか。

たたずまいは、すべて当時のままであった。

それにしても揚子江は広大無辺である。

楊州の辺り、鎮江の港湾など茫として水天彷彿である。

「不尽の長江滾々として来る」 と杠甫が詠じ、「唯見る長江の天際に流るるを」と李白が嘆いた長江は、

正に天際より天際に至る大河である。

延々五八〇〇キロ、チベット高原に源を発し、通天河、金沙江と流れ、四川盆地を潤し、湖北、湖南を養い、

安徴、江蘇を貫流して揚子江となって海に入る。

気の遠くなるような水の膨らみである。

幾多の歴史と人血を呑み込み、永遠に営みを続ける長江は、錯誤と混迷で綴った我々の愚行も海容して流れ去る激動の屈曲、

大蛇行である。

この流れに育てられ、若年、非命に散った、身近かな戦友犬飼成二君や井上信高君、兄等の追い求めた「悠久の大義」は、

今この地に平和を達成し、全土を中国人の統一国家によって解放の喜びを味わっている民衆を見る時、

「歴史の大義」として息づいていると実感する。

我々が訓練で親しんだ「白菊」も昭和二十年五月以降、特攻出撃をしたという。

二百五十キロの爆弾を抱き、鈍足百五十キロの体当りは、震洋、回天、桜花の悲愴感もなく、

ただただいじらしく散り果てたことであろう。

だが当時の米軍は、この飽くなき自殺行為を恐怖感を以て迎え、実害小さくとも終戦を早め、銃後を塗炭の苦しみから救った。

決して犬死にではない。

尊い犠牲と生き残った我々は讃え続ける。声を限りに。

フィリッピンで始まった特攻作戦は、終戦まで海軍二千五百二十四人、陸軍千三百八十六人の若者の命を呑み込んだという。

合掌

 

角田  登

更新日:2007/10/12