甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第25号/平成 9年

津田三千夫

松山空− 三一空

「遺族係から」

  

「子供の時からずっと戦争の中で大きくなったようなもんなんだ」

これは有名な作家の戦後まもなく小説の一文であります。

私達甲飛十三期もこれと同じで子供のときに満州事変あり、小学校にあがれば間もなく昭和十二年の支那事変、

中等学校在学中に太平洋戦争がはじまり、国をあげてアメリカ、イギリス、中国、オランダと戦争することになった。

 

昭和十六年十二月八日、ハワイ空襲に始まったこの戦いに若者達は続続と戦場に送り出されたが、ガダルカナル島の敗北や

アッツ島の全滅、山本長官の戦死、等々日本は全面的に圧倒され、航空戦力の重要性を知らされた。

政府はあらゆる方法で軍隊に志顧するよう呼びかけ、徴兵の基準をゆるめて多くの若者を軍隊へ入隊させた。

我々志願者の中には、親の目を盗んで印を押し、志頗書を持って行った人もあったと聞いている。

一次試験、二次試験を経て合格者は、昭和十八年十月一日、十二月一日とに分かれて各地の航空隊へ入隊し、訓練に励んだ。

この間に戦局は益々不利となり、配置によっては特攻兵器要員となり、陸に、海に、空に、祖国の勝利を信じつつ

命ぜられるままに従容として散っていった同期生もあり、また空襲等の敵攻撃のため、精根の限りを尽くした訓練の結果が

何一つ報われぬまま散った同期生、病のため無念の涙をのんでこの世を去った同期生等多くの犠牲者を出し、

昭和二十年八月、長かった戦争は終わった。

 

夫々配置先から復員し、外地に居た者の中には二年も遅れて日本へ帰った同期生もあったが祖国復員の一役を担い、

世の中が落着くにつれ、戦争のために散っていった英霊を慰めようと、生存同期生が集い橿原神官の境内で慰霊祭を

行うことになりました。

この間の経緯については別の同期だよりに詳しく書かれていますので省略しますが、二十余年前のことであります。

当初の頃の慰霊祭には御両親の出席も相当多かったが二十年余を経過した現在では僅かとなり、その代わりに戦死者の

兄弟姉妹が出席されるようになった。

 

初めの頃であったが、年老いたお母様が両側から身体を支えられながら遺族係の受付まで一歩、一歩と辿り着き、

右手にしっかりと紙幣を握り、

「これを息子に、これを息子に供えてやって下さい」と祈るように係へ差し出されていた姿が今でも目に浮かんでくる。

戦没者の年金をそのまま持って来られたのではないか、とも思った。

 

いつも言葉少なく控え目に出席されていたお母様もあった。

だが心の中ではいろいろと息子に話しかけられていたに違いない。

 

「うちの子は苦しい目、つらい目にあっていませんでしたか」

「死ぬ時、苦しんでいませんでしたか」

「食物などほ十分にあったのですか」

このような質問が一番つらい。

本当のことを言ってよいのか悪いのか迷ってしまう。

が、こういった質問も最近は無くなった。

出席の方々がほとんど兄弟姉妹となったからであろうか。

「本当にあの子は死んだのでしょうか、どこかの島に流れ着いて生きているのでないでしょうか」

全く遺品の無いまま、ただ一片の紙切れで最愛の息子の戦死を知らされた何人もの親御様からこのように尋ねられて

返答に困ったこともしばしばありました。

 

わが子の死を十分に納得できないまま、この世を去られた親御様も随分多かつたのではなかろうか。

「こんな立派な慰霊祭を行っていただき、本当に感謝しています」

「他の兄弟も戦死しましたが、このような立派な慰霊祭はありません」

「来年もお参りできるよう願っていますが年々身体もお参りできるよう願っていますが年々身体も弱くなるのが心配です。」

兄弟といっても年長の方は八十近い方も居られ、こういったお話も出て来る。

慰霊祭のあと、遺族の方々から多くの礼状をいただいておりますのでその一部を紹介します。

 

若葉薫る侯となりました。四月十四日はりっぱな慰霊祭をしていたゞきましてありがとうございました。

御案内状や当日のご心配とお世話で大変おつかれなされた事と存じます。

おまつりも出来なかった私共にまで写真やお礼状までご送付下さいましてありがとうございました。

当日おまいりした様な気拝でございます。

これからもお世話して下さいます由よろしくお願い申上げます。

どうかお身をご大切にまずは御礼まで。

 

拝復先日は色々とお世話に頂き有難うございました。

亡き兄を四月になるといつも想いますが若い青年がお国のためにと純心に散って行った姿がもう戦争を知る私共

(昭和 大正 明治)の人達しかわかりませんがだんだん少なくなってくる様です。

乱文乍ら失礼いたします。来年もよろしく

 

慰霊祭も平成八年は第二三回でありました。

最初の遺族係として震洋隊の三上さんは、遺族の調査、連絡、名簿作成等大変な苦労をされ、以後長い間お世話をして

いただきましたが体調すぐれず療養を必要とするということで海竜会の吉田さんが引き継がれました。

吉田さんには約十年もの間、遺族係のチーフとしてお世話していただきましたが平成六年後半に体調不調とのことで

私達現チームがひきつぎました。

三上さん、吉田さんの今までのご苦労に対し紙面をかりまして改めて、深く感謝の意を表しますとともに一日も早くご回復される

ことを願っております。

また、各回の慰霊祭の前日及び当日に遺族係をお願いした皆様には大変ご苦労様でした。厚く御礼申しあげます。

今後も従来同様どうかよろしくご協力の程をお願い致します。

 

「甲飛十三期殉國之碑慰霊例祭」で遺族係を努められる津田三千夫さん

 

津田三千夫

更新日:2007/11/03