甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第33号/平成17年

津田三千夫

松山空− 三一空

「終戦から復員まで」

  

昭和二十年八月十七・八日頃、マレー半島最南のジョホールババールの三八一空戦闘機隊基地にいた私達に

突然「搭乗員整列」がかかり、分隊長から

「戦争は終わった。日本は無条件降伏。本日只今から飛行禁止」と聞かされ、続いて今後のことなど訓示を受けて「解散」。

先輩の誰かが、日本へ向かって飛べるだけ飛んで帰ろう、と言いたしそれっとばかり一目散に飛行場へ駆けて行ったが、

そこにはプロペラを外され、鬼が金棒を取られたか、天狗が鼻をへしおられたかのようになった雷電や零戦が並んでいた。

 

一、収容所に入るまで

今までの兵舎を進駐軍の上陸までに引越すことになり、ゴム林の中に点在する倉庫の一棟に戦闘横隊一同落ち着いた。

武装解除だとのことで拳銃を全部集めたが、万一の場合に備え何挺かにグリースをたっぷり塗り油紙で厳重に包み、

付近の古井戸の底に沈めた。

飛行記録も焼却せよとの指示あり、同期の松林君と二人で焚き火で焼いた。

燃やすには惜しい記録もあった。特に分隊士の記録は相当なものであった。

 

戦時中は食卓番を整備科にやってもらっていたか、終戦になったため、一番若輩の十三期が食卓番をしていたら

先任搭乗員の鶴の一声「十三期ばかり食卓番をやらせないで、十二期もやれ」。

これで七名しかいない十三期は大変楽になった。

この当時、腹が空いて仕方かないので、5.6人(この中に私も入っていた)で現地人のイモ畑を攻撃し、

しこたま戦果をあげたが胃の中へ入る前に特別警備隊に見つかり海軍部隊の本部前に二時間ばかり立たされ、

分隊長か引取りに来てくれたが、宿舎へ帰るや否や、「搭乗員全員整列」。

分隊長に、こってり味のきいたピンクを一発づつ頂戴し、おまけに「明日から三日間、食事半減、少しは反省しろ」とやられた。

先任は責任を感じ三日間一粒の飯も口に入れなかった。

今でも、あのときは先任に申し訳無かったと深く反省しています。

 

日本兵を、戦犯(主として捕虜虐待)の関係について一人一人尋問するということで、英軍の車に乗せられて

マレー半島のクルアンへ運ばれた。

元日本陸海軍の兵隊がワンサと集められている。

一泊して翌日、一人づつ尋問室に入った。

室内に白人、黒人合わせて五名が机を並べていて日本語で、入隊以来の行動等について質問があり、

英軍の捕虜のことは出来るだけ避けて答弁をした。

OK、と薄く字が入ったピンク色の小さな紙片をもらった。ホワイトカードと言っていた。

やれやれ、ホット一息。ブラックカードだと、周囲は鉄条網で囲まれているブラックキャンプ行きだとのこと。

其処は四隅に見張櫓があり機銃と照明灯を据え付け、一晩中照明していた。

ホワイトキャンプのすぐ近くにあったので、よく見えたが、あんなに照らされては夜眠れたものでないと思った。

尋問室を出ると一列縦隊で歩かされ、英兵が人数を数えていたが「ここまで」と攻爆隊に続いて歩いていた戦闘機隊四名が、

後ろと切り離されてしまった。

つまり攻爆隊の中に戦闘横隊四名が入ったということである。

特乙一期一名と私達十三期三名であった。

有蓋貨車に乗せられて出発。いよいよ日本へ帰れるか、と期待に胸を膨らませた。

何時間かかったか覚えていないが、シンガポールで下ろされ、着いたところは港どころか、リパバレー収容所であった。

シンガポール市内だが、どの辺りであったか覚えていない。

広場に小さなテントがぎっしり張られている。

その小さなテントの中へ十四名づつ押し込められた。

頭を中央にして七名並んで寝るのがやっとの広さである。

うっかり寝返りもできない。

これからは英国へ支払う賠償金の代わりに我々が毎日労働をさせられるとのこと。

日本へ帰れる望は消えてしまった。

 

二、リババレー収容所

隣のテントを見て驚いた。

ジャワの三十一空の教員であった人達が五・六人いる。

フィリッピンのバタンガスからの分隊士の顔も見える。

昭和二十年になってから三八一空ペナンの攻爆隊に転属になって行った人達である。

思いがけない再会にお互い生きていたかと喜びあった。もう教員と練習生の垣はなかった。

 

私達のテントは整備か兵科かの古参の兵曹長が二人、整備科数名と私達四名であった。

整備科の人達にはよく世話になり食卓番は全部やってもらった。

それぞれの故郷の話をしなから眠った日々でありました。

テントへ入った翌日から強制労働か始まった。

建設関係資材の集積整理、波止場の荷揚げ、被服倉庫の整理、シンガポール市内の整理清掃、等々いろんな作業があった。

着の身着のままの状態であり、洗濯とか洗面、風呂なんかはどぅであったか全く記憶がなく、

恐らく何処かに水道くらいあったのかと思います。

食事のお粗末なこと。

朝はとうもろこしのおかゆ。

昼はビスケット四枚。

夜は雑穀の雑炊。

栄養失調に早くなれ、みたいな食事である。

ある日、建築資材の倉庫で白い粉を見つけ、てっきりカタクリ粉と思い込み、意気揚々とキャンプへ持ち帰り、

水にといて沸かしたがローソク一向に出来上からない。

結局、漆喰の粉とわかり一同失意落胆。空腹を抱えて眠ってしまった。

 

一〜二ケ月位して、戦闘機隊の大部分が到着した。

先任搭乗員はじめ、殆どの顔が揃っている。

同期が一人いない。

他の何名かと一緒に別のどこかの収容所へ行ったとのこと。

三八一空の伊藤飛行長がこの収容所の長となった。

今までは陸軍の少佐が長であったので、どうも海軍部隊は分が悪かったような気がしていたが、

今度は我らが飛行長であるので安心した。

毎日の作業も一緒にすることになり、整備科のテントにお別れした。

 

※鉄骨運び

建設資材の作業に鉄骨の運搬があった。

十何人で重い一本の鉄骨を肩で担いで運ぶ。

ところが小生背が低いから肩が鉄骨まで届かない。

皆が担いでいる鉄骨にぶらさかっている状態である。

それでも監督の手前、いかにも重くて苦しいような素振りをしていた。

これは他の先輩方みんな知っていて、今でも、お前あのときは鉄骨にぶら下がっていたでねーか。と冷やかされると、

グーの音も出ない。

 

※波止場の荷揚げ

現在は「マーライオン」 のあるタンジョンパーカーの波止場でよく荷揚げ作業かあった。

ドンゴロスの袋に五〜六十キロの冷凍牛肉が詰められている。

全員雨合羽を着用、波止場の冷凍庫でトラックに積込み、市内の冷凍庫へトラックごと入る。

二人づつ向かい合ってバケツリレー式にリレーして、天井近くまで積み上げる。

一番上の二人は天井のすぐ下で、ジャックナイフを使ってガンガンと冷凍肉を砕いて、飯食に入る大きさのものを

作業員の数だけ作る。監督は寒いから冷凍庫の中には殆ど入って来ない。

 

※被服倉庫

被服倉庫は収容所からあまり遠くでなかったと記憶している。

大きな倉庫の中に積まれている被服の整理やら、運び込まれる品物の荷下ろしなどの作業であった。

作業の中では楽な部類である。

監督の目を盗んで靴下を褌の紐に何足か吊るして持出しては食物と交換した。

近い作業場だから帰りは徒歩でぞろぞろと、なんとか列を作って帰る。

途中、現地住民の住居では食事を家の中で取らず、家の外の道路側にテーブルを並べ、美味しそうに食べている。

こちらは昼食なしの水だけで重労働をさせられた帰りである。

日曜日の晩に三日分の弁当であるビスケットが十二枚配給されるが貰った途端にすぐ食ってしまうので

月・火・水の三日間は弁当なしで、水道の水を飲むだけ。

だから作業終わって帰る頃は目か回るほどの空腹だ。

見まいと横を向いても、焼豚・鶏・スープ等の匂いが、これでもか、これでもか、と匂ってくる。

ああ腹一杯食いたい〃と胃が叫んでいる。

戦争に負けた身の惨めさを改めて感じさせられた一コマでありました。

人はいろんな欲を持っているかこの当時は、食欲に勝る欲はないと思ったものです。

リババレーに何カ月いたかはっきり記憶していないが、多分三・四ヵ月位たってから、ジュロン収容所へ移る事になりました。

 

三、ジユロン収容所

ジュロンはシンガポール島の中でどちらかといえば、ジョホール水道に近いところだったと思っています。

当時は深いゴム林でありました。

陸海軍の兵隊が相当数いたが、次への配置のための待機所みたいな感じで、特に重労働もなく、

雑用みたいな仕事で日を過ごしていた。

次にテンガー飛行場の作業に行く事になり、ジュロンで一ヵ月たつかたたないうちに移動することになった。

鬼のテンガ-、魔のリババレーと当時我々の間では噂されていたテンガーである。

上層部の中では人選で相当揉めたらしい。

あんな無法者(搭乗員のこと)と一緒に行けば日本へ帰れなくなる。

と士官はみんな引率者となることを辞退したようだ。

結局、攻爆隊偵察の北島中尉が上部から無理に押し付けられ、引率者となった。

戦闘機隊の士官はだれもいなくなってしまった。

北島中尉(同志社大、予備学生十三期、九三六空から三八一攻爆隊へ転属)は戦闘機隊の面倒も見ることになってしまった。

同大空手部と聞いたが、実に誠意ある真面目で温厚な人だった。

惜しくも十年位前に病死されたが、この原稿を書いていると、当時の北島中尉を思い出し胸か熱くなってくる。

 

四、テンガー収容所

とうとう鬼のテンガーへ来た。

戦時中は陸軍の飛行場であったとのこと。

滑走路は一本あったが新しくもう一本建設する作業に我々は使われることになった。

現場では現地人の運転手もまじって大型のキャリオールやブルドーザーがバリバリ動いている。

どえらい活気だ。

滑走路の用地を掘り下げ、一番底に大きな石、次に小さい石、また小さい石、その上に砕石、

ローラーで何回も転圧してコンクリートを打ち込む。

これに関連する作業をいろいろやらされた。

 

※石山の作業

飛行場から車で約二十分離れたところに採石場があった。

ダイナマイトでドカーンと山を崩す。石がゴロゴロ落ちてくる。

その石をクラッシャーにかけられる大きさに、石工ハンマーで割る作業をやらされた。

現地人の石工はいとも簡単にポカポカ割っている。

ところがこちらがやってみると、なかなか割れない。

ハンマーで叩いた石の小さな破片がこちらの足に当たる。

脚絆を巻いた長ズボンでないと、この作業はできない。

長いズボンでも何時間かやっていると、ズボンがポロポロになる。

現地人に、どうやったらそんなに簡単にわれるのだ?と聞くと、ココとココが急所だと教えてくれるが、さっぱり分からない。

三日くらいでクビになった。

 

※クラッシャー

採石をつくるクラッシャーの配置についた。

このクラッシャーめなかなかエンストしない。

これでもか、これでもかと重いのに無理して特大の石を入れても、はじめは止まりそうに回転がおちるが、

すぐガッシ、ガッシと石を砕きはじめる。空腹に無理はやめた。

クラッシャーの下側で篩にかけた砕石をトラックへスコップで積むときは、篩が回転している側だから、

石の粉で体中真っ白になった。

ジュロンから一緒に来た同期五名も同じような配置だった。

 

※コンクリートミキサー

滑走路に打込むコンクリートを練る大型ミキサー数台が二カ所で稼働していた。

それぞれのミキサーにセメント、砂利、砂を入れる作業である。

砂利をスコップで掬うのが一番きつい。

力を相当入れないと掬えない。

このミキサーの発動機もなかなかエンストしない。

監督がいない隙にセメントを少し燃料に混ぜると発動機が止まった。

してやったりと私たちは、スコップを杖にして立ったままウツラ、ウツラと居眠りをする。

現地人のエンジニアは首を傾けながらウロウロしている。

オーバーホールに約三十分かかる。

また、監督の居ないときは砂利を入れないで、砂とセメントだけを入れる。

非常に楽だ。

するとコンクリート打込みの現場監督が走ってくる。

来た来たと真面目に砂利も入れる。

走って来た監督も、文句の言いようがないので、回れ右して帰って行く。

 

※セメントの荷揚げ

タンジョンパーカーの波止場にセメント船が着く。

徹夜の荷揚げが始まる。

船が空になるまで作業員交替して続けられる。

何日も続くと背中についたセメントがいくら洗っても落ちない。

洗うと落ちたように見えるが乾くとセメントの白い色が出てくる。

湯で洗わないと駄目のようだ。

何日も白い色は消えなかった。

 

※作業方法の変更

滑走路の完成も近くなった頃から「この作業は、これだけやったら帰ってよろしい」といった方法が段々増えてきた。

今までは一日中仕事はするが、極力さぼりながらするから能率はあまりあがらない。

英軍側も考えたか?

こちらも、そうなると話は別だとばかり、今までの実績をもとにきめられた作業量位は、半日で終わり、

あとはキャンプへ帰って遊んでいた。

 

※ジェット機

此のころ、二機のジェット機か到着した。

プロペラのないくせに物凄い爆音と排気流で、地上での試運転のときは、後ろの立木が台風にあったみたいになびいて、

折れそうになっていた。

垂直に上昇しての宙返り、低空でのスローロール等見事な操縦をウーンと唸りながら見つめたことでした。

昭和二十二年五・六月頃には、テンガーの生活にも、仕事にも慣れて、また食糧事情も当初より相当改善され、

毎日の生活に若干余裕を感じるようになった。

そして波止場の作業に行った人達から「今日もどこかの部隊が日本へ帰る船に乗っていた。」という話を聞くようになった。

俺たちの順番は未だかなあー、と毎日毎日待って居た。

 

※故郷へ

ついに日本へ帰れる日が来た。

早くリババレー収容所に入った攻爆隊と、私たち戦闘横隊三名である。始めは四名であったか、

少し前、岡山の同期が自動車事故で足を骨折し入院したため、三名ととなっていた。

他の先輩方は末だ帰れないので私たちは少々気兼ねした。

昭和二十二年八月五日夜中に迎えのトラックが来た。

荷物を担いで乗ろうとしたら「オイ津田、ちょっと待て」と乙十七期の山田上飛曹か碁盤(といってもベニヤ板)を抱えて走って来た。

「ここで別れたら一生会えないかもしれない。今お前に白を取られているから永久に俺は黒だということになる。

白を取り返したいから一番やろう。」私はビックリしたがトラックの発車までと思い、碁を打ちだした。

しばらくすると、全員乗車終わったようで「オーィ、まだか、置いてゆくぞ」と、クラクションまで鳴りだした。

碁は未だ途中である。

残留の先輩方から「もう帰るのをやめてここで碁を打っていたらどうだ。

作業はやらんでいいから」と野次が飛ぶ。

「もう勘弁して下さい、白は渡します」と脱兎の如くトラックに飛び乗った。懐かしい思い出である。

 

波止場に着いた。

一列に並んで倉庫のまわりを三重くらい巻いて待った。

夜か明けてから乗船開始五千人か乗り終わったときは午後になっていた。

老朽の嘉山丸はゆっくり、ゆっくり北に向かって進む。もう魚雷にやられる心配は無い。

三人はデッキで寝た。

八月十五日はまだ船の中であった。

もう日本が見えるのではないかなあ・・・。二、三日経った。

「おーい、島が見えるぞー」という声が聞こえた。

少しづつ、少しつつ島影か濃くなってきた。

日本だ、間違いない、日本の山々だ。

みんな右舷に集まってきたので五千トンの船が傾いたみたいだ。

うおーっと大歓声が挙がる。

とうとう帰って来たのだ、再び帰ることのないと思っていた日本へ。何回も夢に見た日本へ。

三年前には段々遠ざかって行った日本の山々か、今度は段々近くなってくる。故郷は目の前だ。

針尾島に上陸。DDTを体中吹きかけられ、真っ白になった。

宿舎に落ち着いた三人は配給の焼酎を持って近くの岡へ行った。

日本へ帰って来た実感かようやく湧いてきた。

 

万感胸に迫る。

俺たちは帰れたが柳河丸とともに、ミンダナオ島沖の海底深く沈んでいった多くの同期生のことを考えると、

何とも言えない悲しさがこみあげてきた。

あの猛訓練は何だったのか。

濠々たる砂塵の中を駆け回る姿が、殴られても、殴られても操縦桿を離さなかった姿が、真っ黒に日焼けした

精悍な何人もの顔が次々と浮かんでくる。

ルソン島バタンガスでの、血を吐くような猛訓練が何一つ報われず無念の涙をのんで消えていった友の魂は

今どこを彷徨っているのだろうか。

俺達だけが祖国の土を踏んだのだ。

すまない、すまん、と心の中で謝った。

とうとう同期は四国の佐伯君と二人だけとなってしまった。

ジャワの同期生はどうなったのかなあ、と話していると、特乙一期の先輩も、俺の同期は何人生きているかなあ、

と感慨深くつぶやいていた。

陸海軍併せて五千人の中で甲飛十三期は二人だけの復員でした。

 

後記

終戦になったのに日本へ帰れない、また一枚の葉書も出せない、来ない。

飢えに苦しみながらの重労働。

見つかれば射殺されるのを覚悟の上で何回も忍び込んだ進駐軍の食糧庫。等々が今でも思い出されます。

シベリア抑留に比べればものの数ではないと思いますが、当時はそれなりに苦しい毎日でした。

故郷へ帰りたい・・胸を締め付けられる思いでした。

若さにまかせて、無茶なことばかりする私達を、父親か兄貴のように庇い、励ましていただき無事故郷へ帰らせていただいた、

予備学生十三期の北島中尉、乙十五期の戦闘横隊先任搭乗員に心から感謝の念を捧げ、

雄図空しく飛練教程半ばにして柳河丸と共にスルー海に散った三十一空バタンガス分遣隊六十九名の同期生の冥福を

祈りながら、終戦から復員までの記録を終わります。

 

「甲飛十三期殉國之碑慰霊例祭」で遺族係を努められる津田三千夫さん

 

津田三千夫

更新日:2007/11/01