甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第24号/平成 8年

高崎清治郎

松山空− 三一空

「 三一空秘話」

  

一、柳河丸、辰城丸の惨

大東亜戦争開戦二年余戦局逼迫し新しい航空戦力育成の急務のため、昭和十九年三月一日に三一空は、

マニラ郊外第二ニコラス基地に開設された。

甲飛十二期百六十人、同十三期百八十人が操縦術の教育を受けた。

一方で十九年七月一日、ミンダナオ島サランガニー基地に於て同じく操縦術教育の三二空が解隊され三一空と合併された。

そして我々三八期操縦術練習生は汗と油にまみれて苛酷な猛訓練の明け暮れであった。

然し戦局の悪化によりニコラスでの飛行作業は不能になり、この間十九年九月二十一日米軍磯五百機以上の大空襲により

基地をはじめ、マニラ港湾施設は大きな被害を受けた。

三一空司令竹田少将は命により、台湾、仏印、ジャワの三候補の中より決断されたのが

ジャワ・ジョクジャカルタ・マグオ基地への転進断行であった。

第一回の出発は十九年九月初旬、飛行科をはじめ各科合わせて三五〇名、柳河丸にてマニラ出港、

九月八目深夜スルー海にて、はげしいスコール中、敵潜の雷撃により轟沈、

指揮官篠原少尉(整備科)以下三百余名戦死、

同じく辰城丸は十九年十月五日昼間、ミンドロ沖にて米韓の攻撃により撃沈され、これ又十数名の儀性者を出した。

これが三一空が受けた最初の被害であった。

 

二、中練機空輸のこと

昭和十八年から内地の飛行場が不足になり比島とインドネシヤに作ることとなった。

十九年四月からニコラス基地とサランガニ基地での飛行作業開始の予定で、全国の航空隊から九三中練をかき集め、

合計百二十機を大村航空隊に集めた。

そして三十機で編隊を組み、鹿屋、喜界ケ島.沖縄、台北、台南、恒春、アバリ、マニラ三一空、セブ、ダパオ、

サランガニー三二空と空輸した。

全行程は二千海里、航空路で頂度、東京とロンドンを飛ぶよりも一層の難事である。

海軍公報に航空本部長、軍事局長の連名で練習機百二十機を比島迄空輸するに付、

所在各部隊は警戒、基地の準備、便宜の供与云々の発令がなされた。

アバリでは基地員もなく、搭乗員自身が燃料を積んで飛び上る始末であった。

操縦員は優秀な教官と教員、同乗の整備員も叉優秀な者のみで、一機も失わず空輸できたのは、

幸運と云うより他に言葉がなかった。

以上は古瀬少将談。古瀬少将は三二空司令を経て終戦迄比島航空隊全般の指揮をとられ、

戦後戦犯としてモソテンルパに収容、後釈放され、内地帰還後、御他界された。

 

三、終戦前の戦力

司令の命を承けて、飛行隊を作戦部隊として戦力化するため、爆装した練習機を以て攻撃隊を編成し、

残余の隊員を陸戦隊とした。

飛行隊の実動は飛行機四十撥、搭乗員八十名とし、ジャワ島の各航空基地を利用して機動的に運用し、

距離百浬以内の輸送船と沿岸の物資集積所を夜間攻撃することも構想していた。

二十年四月頃から攻撃隊としての訓練を開始し、六月頃から所要の隊員を四分隊に集結し、重点を夜間訓練に移行した。

七月には基地をバンドンに移動して西部ジャワの夜間航法に慣熟させた。

これと併行して整備科、工作科の努力で飛行撥の爆装も進捗した。

一方では陸戦訓練も小野大尉(五分隊長)が専任となり、本隊に於て行う他、飛行科総員が順次交替して

スマランに所在する陸軍城戸部隊に約一ケ月仮入隊し、その指揮の下にマゲラン演習場で訓練を行った。

各科においては陸戦訓練の他に相互に協力して鉄製の電柱を切断し、また他の金属資材を活用し、

中攻用として多量備蓄されていた航空爆弾の火薬を利用して迫撃砲、手留弾、銃剣等を自隊で製作し、

連合軍のジャワ方面への進攻を九月以降と予想し、八月末を目途として戦力化の努力が続けられた。

以上は植草飛行隊長談。

 

四、スマラン事件の悲劇

終戦後独立の意欲に燃えるインドネシヤ軍は、連合軍の接収前に日本軍の武器弾薬その他軍需品を獲得しようと

必死になっていた。

二十年十月以降ジャカルタ、バンドン、スマラン、スラバヤ各地に於てイ側と連合軍側とは交戦状態に入った。

遂にバンドソl郊外においては数十人の邦人が殺害され、十月九日集結地に向う海軍部隊に対する殺害事件が起きた。

スマランに於ても、武器引渡しを強要するイ側と之を拒否する城戸部隊との交渉は決裂状態となった。

十月十四日、イ側は行動を開始した。

先ずスマラン市内の連合国人、混血、親オランダ派を一網打尽に拉致し、ついで同日夕刻から邦人が逮捕され、

同市グル刑務所に収容された。

然し我方の施設部隊三百四十人は収容に来たイ側警官に対し一団となって抵抗し逆に数十人のイ側警官を撲殺して

城戸部隊に辿り着いた。

翌十五日未明同部隊は治安確保のため作戦を開始した。

然し不幸にも同日〇四・〇〇連合軍の命令により要務飛行のためスマラン飛行場に宿泊していた長岡中尉ら八人の

三一空隊員を含む陸海軍関係者も収容されてしまった。

イ側は城戸部隊の作戦に先手を取る意味と前日の警官撲殺事件の仕返しのため十五日夕刻から日本人の虐殺を始めた。

一九六人の日本人は僅か四坪程の留置室八室に分れて収容され、連合国人側の二室は幸い難を逃れたが、

他の六室は何れも格子越しに竹槍で突かれ、小銃、機銃を乱射され、忽ち大半は死傷した。

さらに死体に混っている生存者まで探し出され射殺された。

三一空の石本少尉(整備・特)は暴徒が去った一瞬の隙に天井から脱出し、野村上整曹は兇弾を腰に受け倒れている処を

数時間後に救出され、九死に一生を得たが、次の六名の方が兇手に倒れられた。

 

長岡中尉   整備科 特

花垣少尉   飛行科 特 五分隊士

朴谷上整曹 整備科

安田上飛曹 飛行科 二分隊教員

前神上飛曹  〃

荒木上飛曹  〃

 

その他、艦隊司令部と武官府の部員六名も殺害された。

翌十六日一六:〇〇陸軍憲兵隊が同刑務所を占領し監房の中に折り重なった死体と流血の惨憺たる地獄図絵が

明らかにされた。

この事件は日本人の入所数一九六人、生存者五二人、負傷者一八人、死亡者一〇八人、行方不明一八人であった。

尚、スマラン市以外でも数日の間に軍需部竹下大佐、五警副長大谷中佐ら八六人は集結地に向う列車でバンドンに来る途中、

暴徒によって列車から降され、身に寸鉄を帯びないまま無残にも惨殺された。

こうした惨事はまだ続いた。

そして十月二十二日一七:〇〇頃遂に我が三一空本隊と飛行場マグオ基地もイ軍の襲撃を受けた。

以後の記事は紙面の都合上、後編にゆずることとする。

以上は、三一空飛行隊長植草大尉の談話。

同隊長は海上自衛隊にて海将、大湊総監に昇進され、昭和五七年退官、

東京にて御健在。毎年の三一空会に御出席、三一空団結の根幹である。

 

因に三一空での戦死者及び戦病死者、その他戦没者は次の通りである。

一九年九月八日 柳河丸にて戦死

整備科一五九名、飛行科八四名、 他各科四五名、計二八八名

同年十月五日 辰城丸にて戦死

飛行科七名、整備科五名、 その他二名、計一四名。二十年十月十五日

スマラン事件による準戦死

長岡中尉を含む六名

同年十月二十二日 ジョクジャカルタ襲撃による準戦死及その他

八名

以上は 「第三十一海軍航空隊の歩み」 より。 

 

高崎清治郎

更新日:2007/10/12