甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

関西甲飛十三期会 公認ホームページ

 

会報「總員起こし」  第23号/平成 7年

高崎清治郎

松山空− 三一空

「 三一空重機関銃小隊 異常なし」

  

沖縄で血みどろの激戦が続いている頃、即ち昭和二十年春頃、我々は第三八期飛練(操縦術)を卒業し、

実用機々種も決定し延長教育のため実施部隊への転勤を心待ちにしていたが行き先が決まらず、

ほんの一部の者だけが飛行作業を続けたが、大部分の者は他の科と同様陸戦に振りむけられ、

小銃を持ち日夜を分たず行軍につづいて戦斗訓練に明け暮れていた。

その最中に重機小隊が編成され、現存者では、布生、光峰、仁野、高崎その他の者が指名された。

さて、その機銃は大正十五年製の重機関銃、人員は長(分隊下士)以下八名で、銃手一名、銃側三名、弾薬手四名であった。

銃手及び銃側は銃座及び銃身を担い、弾薬手は弾薬箱二個を担って進むわけである。

最初は銃の分解、各部の名称、結合から始まり」、何日かの後愈々訓練に入った。

演習場はジョクジャカルタの本隊から数十キロ離れた有名なポロブドール近くのマゲラン草原であった。

この間は勿論行軍である。兵舎は元 オランダ軍の兵舎でコンクリート造りであった。

行軍の間は銃座に銃身を取り付け前棍、後棍をはめ込むようになっており、それを左右一名づつ計四名で肩に担いで

進むわけである。

最初の頃は歩くたびに銃が肩の上で跳んで、肩は痛いし銃は重いし、何の因果でこんな重いものを担がにゃならんのだと

愚痴ったもんだった。

然しものの十日もたつうちに、四人の担ぐ呼吸がぴったり合って、さしもの重い鈴も肩になじみ、走っても飛んでも跳ねないし、

重さも大して感じない様になった。

山道など狭い処では、分解搬送といって銃身、銃座、両棍をそれぞれに分解して担いで進むというわけ、

戦斗至近になれば、それを結合して散開して前進し、戦斗になると分隊下士が地形を利用して「銃の位置ここ」と指示し、

各自は携帯しているスコップで地面を均し、銃を安定させ、弾薬手は弾薬箱から弾帯を出して装填し、

銃手は示された目標に照準を合わし「打ち方用意よろしい」と報告し、分隊下士の「打て」の命令を待つわけである。

その当時は、みんなが小銃をかついで行軍している中で、我々は一門の重機を持ち意気揚々たるもので、

戦斗になったら「お前らの小銃よりこの重機が物をいうんだぞ」という自負心というか、誇りというか、そんな気持であった。

以上が五十年前のおぼろげな記憶の一コマである。

 

さて何年か前に読んだ戦記の中で一九四五年夏 (昭和二十年夏)までにビルマ作戦を終えたマウントバッテン指揮の英軍は、

同年九月全ジャワ島の要衝に空挺部隊を降下させ、続いて数ヶ所から上陸作戦を開始して二ケ月で攻略し、

一九四五年中に作戦を終了する。と記されてあった。

この通り進めば、終戦があと二ケ月遅かったら、ジャワの陸海軍は比島やガダルと同じ運命をたどっただろう。

勿論三一空重機小隊は全員壮烈な戦死、現在殉国之碑の銘板に刻名されているだろう。

飛練を卒業して、この様な特異な体験をした十三期の者が居ることを解ってもらう為に、この拙文を記す次第である。

 

高崎清治郎

更新日:2007/10/12