甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会
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会報「總員起こし」 第21号/平成 5年
高崎清治郎
松山空− 三一空
「魔のスルー海」
前号では、佐世保出港からマニラ上陸−三一空入隊−マニラ初空襲まで又、初期の飛行作業のあらましを記しましたが、
引続きその後を記しましょう。
マニラが危険にさらされ、我々の飛行作業が不可能に三一空はジャワへ転戦することになった。
終戦後マニラに関するいろいろの戦記を読むと三一空がマニラを出た後は、海軍各部隊及施設部軍需部等の非戦斗部隊も
すべて残留し陸戦隊編成になりマニラ防衛に任じられ、多くの犠牲者を出し終戦まで悲惨な斗ひを続けたそうです。
まさに軍隊とは運隊である。
さて、移動にかかわるわけだが、中練も一機に十人くらいかかって炎熱のマニラ街道を埠頭まで手押しで約三十粁の道のりを
現住民や陸海軍の兵隊が奇異の目で見ている中を堂々と押し乍らエッチラ、エッチラ進んでゆく姿は
おそらく前代未聞のものだったと思ふ。
後で思ふとこの状況は逐一、スパイによって完全に米軍にキャッチされていたことだらう。
積込んだ船、出港日時、警備状況、等々を含めて、とにかく連日この様なことで何日かかって積込み終り、我々も乗船し、
日田丸(六千頓)はマニラを出港した、十隻くらいの船団であった様に思ふ。
コレヒドールを左に見てスルー海に入った。
駆逐艦と掃海艇が二隻程、発光信号を交わしながら併進していた。
敵潜水艦に接触されているといふ予感がつきまとっていた。
だから総員見張は緊張そのものであった。
この様な危険な航海の毎日で我々は身心共に疲ればてていた。
出港して何日目かボルネオの島影に沿い、池田地帯特有の風景を左側方まじかに見ながらあと何日かでシンガポールに
入港だと聞かされた。船は十二ノットぐらいで単調に進んでいた。
我々は緊張の中にも理由のない安堵感が漂っていた。
ある日の正午ごろ、何の前触れもなく突然船団の後尾にいた油槽船がドーンといふ大音響とともに火柱が上った。
一瞬魚雷だといふ感じが恐怖となって身体中を走った。
と同時に我々の船にも魚雷が二本近づいてきた。
「魚雷発見右後方」の見張の声に右舷中央に居た私は、はっきりと海面下、数米の浅いところを、気泡をだしながら
本船めがけて直進してくる魔物が見えた。
本船は船がきしむぐらい取舵一杯でやうやく数米のところでかわした、
ああやれやれと思ふまもなく又もや一本の魚雷が襲ってきた。
今度は駄目だと思はず、積んであった竹の筏を取らうとしたとき、幸運にもこれもぎりぎり三米ぐらいでかわした。
そのとき左側方を併進していた陸兵満載の船がやられた、
大きな爆発音と共に船が傾き船尾から沈んでゆき、多くの兵隊が海に飛び込んでゆく。
甲板に固縛してあったロープ、チェーンが爆発の衝撃で切れて戦車や自動車がゴロゴロと音をたてて転がりながら
落ちてゆくのが、はっきりと見えたし事実音もはっきり聞えた。
我々の乗船は紙一重のところを助った。
ほんとうに明暗を別けた一瞬であった。
気の毒な胸の痛むシーンであった。
この様な死と隣合せの航海十数日の末ヨタヨタとヤットの思いでシンガポール・セレター港に入港した。
港には軍船旗をはためかせて小船艇が走り廻っていた。
我々は前途幾多の死線が待っているのだとは覚悟しながらも、とにかく暫くここに居る間は大丈夫だと思ふと、
狭い水道の両側に濃い緑の熱帯樹の姿の何と美しい事だろう。
この悪夢の様な十数日の航海が凄絶だっただけに入港の喜びが一しほ嬉しいものだった。
上陸後、トラックで市中のビルの間を進みジョホールを抜けてマレー半島南端のローヤンの三警へ仮入隊した。
その辺りは椰子の生い茂った海岸線から少し離れたところに兵舎があり、隊内は忙しく活気に満ちた印象を受けた。
然しつかの間の安らぎの中で突然、頭をハンマーでたたかれた様な深い衝撃を受けた。
それは我々より半月前にマニラを出て同じ船路を進んでいた柳河丸が魚雷を受け(深夜)沈没、
飛行科四分隊約八十名の内僅か数人だけが助かり、全滅に近い被害を受けたとの報らせであった。
松空での同期の者も数人居た、皆気の好い奴だった。
そして成績の良い奴ばかりだった。
この船には各科合せて三百六十余名が乗りその内助ったのは、五十余名だと聞かされた。
私はこの報らせを聞いて、その場で全身の力が抜け出してゆく様な虚脱感におおわれた。
更新日:2007/10/12