甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会
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会報「總員起こし」 第20号/平成 5年
高崎清治郎
松山空− 三一空
「マニラ旧懐」
何しろ半世紀前の事を正確な記録もなしに記すわけですから、間違いのあることはご勘弁を願います。
昭和十八年十月一日松山空入隊、十九年五月予科練習生教程卒業、同日付で三一空転勤を命ぜられ、
五月二〇日頃陸行で佐世保海兵団に仮入隊、六月一二日捕鯨母船第二図南丸(一万二千屯位?)に便乗し
「アア堂々の輸送船サラバ祖国よ栄あれ」歌の通りの心境で、船は一路マニラ宣候で出航した。
船団は十五隻位だったと思います。
駆逐艦一〜二隻が護衛して併進し、陸攻が上空から守ってくれました。
但し一〜二日位だったと思います。
出港してすぐ敵潜の接触を受け鹿児島港に引返しました。
上甲板には出撃する魚雷艇隊が居住し、私達より数年古い兵曹達から艇の下で酒宴に呼ばれ、海軍の内幕を話してくれ、
酒や女の話を聞かされ、自分が一ペんに年季の入った兵隊になったような気がして、嬉しかったですよ。
そうして二週間位危ない海域をよたよた進みながら六月末無事マニラ港に入りました。
埠頭にはトラックが迎へに来てくれておりました。
始めて上陸する外国の街、建物はスペインの遺物で、白のセメント?で塗装され、堂々たる街並でした。
陸海軍のトラックが走り廻り、引卒された兵隊が多く、その中に捕虜が上半身裸で赤くただれた肌に金色の毛が汗に光って、
あわれな姿、手錠をかけられて歩いている姿も見受けられた。
三一空の隊門をくぐると、それは航空隊とは名ばかり(想像がデカカッタのか)で、竹の柱と椰子の葉でふいた屋根、
アンベラの壁、竹を割った床板の兵舎、隊内は起伏のはげしい草原で所々に珍しい南国の樹が茂り、
たわわに黄色い実をつけていました。
まばらに潅木が影を成し、二〜三〇〇米の所に小川が流れ、その附近の低地には椰子やパパイヤが実っていました。
飛行場は一段高い草原で、滑走路は確か簡易舗装であったような気がします。
始めてマンゴーを食べ、然も食べ過ぎてその汁で唇の辺りがただれたりしたものです。
慣熟飛行まで乾期で地面が亀裂し凸凹のはげしい草原で自転車に乗り操縦準則の呼称をしながらの訓練開始でした。
教員も若く、松空時代の教員とは気合が違うなあと思いました。
夜の罰直は厳しいもので、飛行科だけでなく、整備科や他のデッキでもバッターやピンクの音が、アンベラ越しに聞えてきたものです。
私は外地迄来て、訓練以外にこの様な苛酷な制裁をする意味があるのかと疑問に思った事もあった。
いよいよ飛行作業が始ったが、叱責と怒号との中での訓練であった。
今から考えると操縦を習うというよりも、練習生のへマをするのを指摘して罰直を加えるという教育法であった。
但しこれは三一空の我々だけが受けた試練ではなく、操偵の差はもとより、どの航空隊でも大同小異ではなかったかと思う。
然し乍ら楽しい事も無いではなかった。
マニラ市街への外出で、内地には無い果物や食べ物、ラグナ湖への行軍等、異国情緒をちょっぴり味わうことのできたのも、
ささやかな楽しみの一つであった。
又衛兵の目を盗んで隊外で現住民から珍しい菓子やバナナ・マンゴーその他の果物を買うことも、ひそかな慰めでした。
そうそう、今でも思い出して苦笑することがあります。
それは、マニラ市街へ外出して、布生と二人でエスコルタ街をぶらつき、街頭の屋台で皮製品を売っていた商人を、
ひやかしている中に、ワニ皮かトカゲ皮か忘れたが、財布か小銭入れを軽い気拝でその一個パクッて逃げようとしたところ、
品物にはひもをつけてあって、引張ると屋台全体が倒れてしまった。
とたんにオヤジが大声で叫んだ、二人で飛んで逃げた事を思い出す。
ある朝、たしか十九年九月下旬の朝食が終った頃、突然ニコラス基地の上から小型機がたくさん見え、
基地から煙が上った、と見る間に爆音が聞えた。
空襲という号令がかかると同時に物凄い爆弾と機銃の攻撃が始った。
頂度その時、私は舎外に居ったので、飛行場へ通ずる道路の側溝、巾一米位、深さ一米位の中へ飛込んで伏せた。
道路に沿ってブスブスと機鋳掃射が始った。
基地内では各所で爆弾が降りそそいだ。
仰向いて空を見ると、何百機の彼我の飛行機が入り乱れての空戦である。
始めて見る飛行機対飛行機の戦闘に暫し身の危険を忘れて見とていた。
漸く敵の攻撃が終り、兵舎を見ると、兵舎は被害若干で済んだ。然し享炊所前にあった砲台は直撃を被り
十何人かの砲台員は全員戦死だと、後で聞かされた。
この時、ああ俺もいよいよ戦場へ来たんだ、「よーしやったるぞ」 という感じであった。
その数日後、三一空はジャワへの転進命令により、次の行動にうつることになった。今回は之にて終り。
ジャワの極楽・マニラの地獄
更新日:2007/10/12