甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第24号/平成 8年

尾関 南山

松山空(前)−第二郡山空−七二一空 −七二二空龍巻隊

「 特別攻撃機『桜花』と甲飛十三期生」

  

戦局益々厳しさを増す昭和十九年の秋、我等甲飛第十三期生は第三十八期飛行術練習生として殆んどの教程を終え、

実習部隊に行くのを待ちながら福島県第二郡山海軍航空隊にいた。

その時戦闘機志望者の中から秘密特攻機による特攻要員の募集があり、早速志願したのが七二一空、別称神雷部隊で、

その秘密特攻機が「丸大」即ち 「桜花」 であった。

何分極秘の事とて二十名の志願者は二郡空司令室に集められ、司令直々に涙ながらの訓示に驚き、

事の重大さを感じたのであった。

早速七つ釦から水兵服(セーラー)に着替え八重桜(高等科)のマークを付け、茨城県神之池の神雷部隊桜花隊に入隊した。

(昭和二十年一月十六日)

甲飛十三期(松山空)生は第二郡山二十名、諌早三十五名、済州島三十五名の計九十名であった。

日本海軍最強の特攻部隊神雷部隊桜花隊員は約四百名余、闘志満々の精鋭達は実戦生き残りのベテラン搭乗員で、

特に先任下士官向山上飛曹の腕には善行章二本がどす黒い眼光と共に輝いていた。

やがて桜花搭乗訓練が始まる。

学科と実技、それには零式艦上戦闘機(主に練戦)を使用したので零戦二一型、桜花機(丸大)共々に習得し猛訓練に

入ったのであるが、残念にも同期の殉職者二名を出している。

特に桜花投下訓練中に桜花と共に犠牲となった中根凡夫兵曹(岐阜県)とは第二郡山からの戦友で優秀な隊員であった。

その彼が殉職とは考えられない事であったが今になって、母機陸攻機と桜花の接続に欠陥があり、

人間の技量不足ではなく不可抗力であった事が証明されている。

もう一人は零戦にて石毛敏夫兵曹であった。

とにかくも桜花は一回だけの搭乗訓練であり、二回目は出撃即ち戦死者となる。それ故桜花は人間ロケット爆弾滑空機で

あるから滑空訓練に零戦を使用して、高度四百米から千二千、三千五百と単独滑空をマスターし、

最後に陸攻機より吊された桜花の投下訓練となる。

第一飛行場から第二飛行場へ降下高度三千五百米、速度三五〇ノット、制限速度五五〇ノット (マッハ〇・八五)、

着地一〇〇ノットに合わせて目的地に着地する。

その桜花機とは、昭和十九年八月上旬大田正一少尉のロケット特殊攻撃機の着想及びこれによる攻撃法、

即ち丸大(桜花)の試作となり、同八月中旬元海軍技術少佐三木忠直氏これを受けて人間特攻爆弾桜花を作る事となる。

その桜花一一型は主翼は木製、機体はアルミ合金製、ロケットで加速して滑空、敵艦に突入する。

一一型は約七六〇機生産された。

他にジェット装備の二二型、三三型、カタパルト発進の四三甲型と同乙型、曳航の五三型などがあった。

主に我々は桜花一一型であったので、更に付記すれば、「桜花」一一型 略符号MXY17全幅五・一二米、全長六・〇六六米、

全高一・六米 翼面積六・〇平方米、自重四四〇kg、最大速度六四八Km/h、兵装爆弾一二〇〇kg(爆発頭部)である。

 

やがて、神之池の七二一空神雷部隊は昭和二十年一月下旬より九州鹿屋基地に進出し、我々桜花練成部隊は更に

練成のため二月中旬七二二空龍巻部隊となって神之池に残る事となる。

九州鹿屋基地から神雷隊員の出撃を振り返れば、主に沖縄周辺の機動部隊及び艦船に対して、神風桜花特別攻撃隊、

神雷部隊桜花隊と攻撃隊は、三月二十一日より六月二十二日まで十回、飛行隊長野中五郎少佐以下四二五名である。

叉神雷部隊、爆戦隊、建武隊は、四月二日より八月十三日まで零式特攻(爆装五〇番)となって

十一回と別に二回、一一三名余。

その凄まじさは五百名から六百名を超える方々が戦死されている事から、沖縄方面への特攻出撃部隊では

最大の犠牲を払った部隊である事が判る。

 

幸か不幸か、我々神雷での同期生は陸攻隊一名(茂木 晃、千葉)を除いては一人も出撃戦死していない。

共に励み共に遊んだ甲飛十二期(飛棟三十七期)の花田、古田両隊員は建武隊となって種子島東方の機動部隊に

突入玉砕した。

直前での生と死の境であり、僅か二 二ケ月の差の奇蹟である。

人間の「生と死」、当時十七才の私にとっては、あの強大な恐しい、想像も着かない巨大な何かが蠢いている。

そんな貴重な経験体験であった。人間として力強い幅を、今は亡き数多くの隊員より預り生きているのであるから、

有難い窮みである。

出撃し玉砕して行った先輩隊員の諸霊よ、ひたすら安らかにお眠り下さい。鎮魂歌と共に合掌あるのみ。

 

尾関 南山

更新日:2007/10/12