甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第31号/平成15年

大槻 彰一

 

「九死に一生の東京大空襲」

  

帰る日の無きやも知れず書く遺書のこれが最後か父母のもと

米軍が千葉県房総半島の九十九里浜に上陸するであろうとの参謀本部の命により、これを迎え撃つべく「特攻隊要員」として、

昭和二十年五月二十日に光州海軍航空隊(現韓国光州市)から東京海軍航空隊(現羽田空港)に集結しました。

二十三日夜遅く品川駅に着いたのですが、引率者の教官が「今夜も遅くなったし、明日からまた激しい訓練が始まるので

此処で休んでいこう」と云う事で海仁会(海軍の宿泊所)に泊ることになりました。

場所は駅近くのプリンスホテルのすぐ横の辺りです。

三十六名の隊員は長い旅の疲れと空腹のため(夕食はまだ食べてない)二階の大広間に倒れるように横になりました。

この日は暑かったので半袖シャツとタンパン姿でした。

 

歴史にも残る惨状東京大空襲はこの世の地獄

夜中の十時頃と思いますが、B29の大空襲による無差別爆撃、我々の宿泊所も焼夷弾の直撃を受け、

激しい音と熱風で目を覚ましたところ、辺りは紅蓮の炎、みな避難したのか誰れも居ない、

逃げる途中で広い部屋の中央に四・五人が横たわっていたのが、瞬間目に入りましたが、階段の下はすでに火の海と化し

降りるに降りられず、「どうしよう」と躊躇した時、炎の明りで一瞬窓越しに電信柱が目に映り「あそこだ」と熱風をかいくぐり、

窓から飛び移り無我夢中で駅のガード下へと走りました。

上空からはB29の落とす焼夷弾がうなり声を立て、さながら 「シダレ桜」 のように映りだされていました。

 

逃げ場を失くして煙にまかれたる無傷の死体かたまりてあり

ガード下は逃げてきた人でごった返し、其の側には真っ黒に焼けた死人の山、苦痛に耐えてる人また人で生き地獄とは

この事を云うのでしょう。

時間が経つにつれて、散りじりになっていた仲間も三々五々と海軍経理学校に集まって来ましたが、

顔は煤けシャツは泥と煙で汚れ、見るも無残な姿でしたが、お互い無事を喜びあいました。

然し七名の犠牲者が出たことを知らされ、嘆き悲しみました。

計画は急遽中止になり、茨城県の霞ケ浦海軍航空隊に移動しました。

 

あの友もこの戦友も散華し靖国神社は黙して語らず

 

大槻 彰一

更新日:2007/10/12