甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第 7号/ 昭和51年

大西 尚男

甲飛十三期 飛練四十期(呉志飛一六四七八)

「徳島航空隊の最後(二)」

  

○指揮塔炎上

私は冠った土砂を払い落とし、先程来、気になる格納庫方面の火炎現場へ走った。

隊内では多くの兵隊が走り廻っている。

火炎の元はすぐ判った。航空基地にとって中枢である指揮塔が真赤な炎に包まれていた。

ちきしょう。飛行長の顔が浮かぶ。

すぐ傍に落下した爆弾の爆発でできた即席プールにホースを放りこみ、消火隊が懸命の消火活動をやっているが消えそうにない。

その東方格納庫はづれの広場に積んでいた航空燃料のドラム缶に火が入り引火爆発を起して空中に跳び上り燃えていた。

いつまた敵機が来るかわからぬので火元の確認だけして急ぎ元の陣地へ帰り、えらいことだ指揮塔がやられて燃えてるぞと

戦友達に大声で伝え、故障銃の分解を始めた。戦友連も引きつった顔で話し合っている。

さっきまで上空にいた星のマークの米機が、またやって来ないか爆音に神経を集中しながら分解を終り、一つひとつ元通り組立てた。

そしで試射したところ頼もしい手応えで二発の銃弾が発射された。

先程はなぜ弾が出なかったのだろう。

やはりうろたえていたのだろうか、とにかく直ったからやれやれである。

敵さんもう怖くはないぞ、いつでも来い、私は操縦桿をぐるぐる廻して機影を捜した。

少し落ち着いたせいか途端に空腹を感じた。

朝から何も立ペずに戦い昼も幾分過ぎている、口もカラカラである。

然し敵の落下増槽のおかげで烹炊所は烹き上った飯もろとも焼けてしまって何も食うものがない。

腹が減っては戦ができんぞ、どうしてくれるのかなどがヤガヤいっていた時、ようやく四枚宛の乾パンが配給された。

皆焼かれてしまったのだから賛沢はいえない。

水をゴクゴク飲んで四枚の乾パンを腹に放りこみやれやれと思っていたら敵機の再来襲である。

くそっと機銃に飛びついたが飛行場方面に機銃掃射を始めた。爆弾はなさそうである。

機首を上げようとするグラマンに十数発撃ったが手応えなく逃がしてしまった。

十数機が二回程度反転掃射して引き揚げていった。

恐らく破壊程度を確認に来たのであろう。

 

○警報解除

ようやく一六〇〇頃警戒配備が解かれた。

あちこちから機銃員や、防空壕に避難していた者たちが、ぞろぞろと七分隊指揮官のいる防空壕のところに集まってきた。

最初「撃ち方始め」の号令を発したまま防空壕に隠れていた指揮官の大尉も、バツ悪そうに出てきてキョロキョロ見廻している。

私はシコルスキー一旗撃墜を報告した。

他に藤繹グループで一期と梅沢グループで一機、計三機確実である。

他に確認できなかった不確実が三機あったようだ。

飛行場はどうなっているか気になる。

私は数人の戦友と駈け足で飛行場へ行ってみた。

たまたま駐機していた新鋭の陸上攻撃機銀河一機が無残にも炎上され哀れなものと化していた。

あちこちで余じんがくすぶっている。

数棟ある格納庫はその全部があちこち穴を開け、鉄骨が曲がって傾いたり満足なものはない。

飛行場はこれまた目をおおう惨状で大きな穴を幾つもバクッと開けている。

飛行場の端に放置していた脚の折れた飛行機や木板製の囮ゼロ戦的二〇機も大破中破さまざまに壊されている。

格納庫横の鉄筋コンクリート構造防空壕に、不運にも爆弾が直撃し何名か入っていたようだが全員死んだらしいという。

格納庫のコンクリート床の上に不気味に不発弾が転がっており誰も近寄ろうとしない。

庁舎、士官宿舎、兵舎、病室、講堂その他殆んどの建物が大中小破いずれか被害を受け、地面も穴ができたり、

爆発での飛散物があったり、昨日までの美しかった飛行場や建物が余りにもひどい変りようであった。

恨みの烹炊所では真黒く焼けた飯入りのバツ缶が幾つも並び、これも黒っぽくなったたくあんが山をなして燻ぶり

一層わびしさを感ずる。

飛行場東側の沼の中に墜ちた敵機二機の引揚げが始まった。

頭から沼に突っこみ胴体半分と尾翼を逆立ちで出しているのをクレーンで引揚げた。搭乗員の遺体を見た作業員の声で

服装は煙管服で、靴は短靴とわかった。

日本の搭乗員の服装とは随分違う、これはアメリカもいよいよ物資が乏しいぞ、日本以上に囲っている、よし頑張るぞ、

我々は勝手な判断をして自分を安心させるのであった。

然しついに我が徳空はやられたのである。

翌日の新聞には徳島地方に米艦載機来襲するも我が海軍部隊は十五機を撃墜、十七機不確実の損害を与えたと報道されて

いたが我が方も壊滅的被害を受けたのである。

 

○高射砲隊、ゼロ戦に発砲

夕刻近く飛行場にいた時、南西の空から突然爆音が聞こえてきた。

また敵積かと皆、うろたえた。

こわごわ見ると高度八〇〇米位を猛スピードこちらに向って接近する十数機の一団が見える。

然しどうも馴染みのある機影であり爆音である。

そうだゼロ戦だ、どこの基地から飛来したのか我が海軍虎の子のゼロ戦なのである。

もっと早く来て欲しかったなと思いながらゼロ戦の勇姿に見惚れていた時、高射砲陣地から一斉に射ち出した。

バツバツと炸裂する。

予期しない友軍の歓迎に驚いた十数機のゼロ我は一斉に散開しながら、バンクして味方識別を送っている。

敵味方の区別がわからず気狂いのように射っていた高射砲も漸く日の丸が目についたのか射ち方を止めた。

馬鹿野郎、被弾していなければよいが大変なことをやってくれたものだ。

あの指揮官は明き盲か、付近にいた者皆が高射砲隊指揮官をポロクソにけなすのであった。

飛行場上空に達したゼロ戦は横滑り操縦で穴のないところを避けながら緊急着陸を始めた。

これは急激に高度を下げ次に機を引起こし三点接地するかなり技術の高い着陸方法で今まで聞いたことはあったが

見るのは初めてであった。

それも爆撃であちこちにできた穴を避けながら十数機が全様無事に短時間のうちに着陸したのだから全く見事なものであった。

普段ならこのサーカス着陸に全員整列してヤンヤの拍手喝采で迎えるところだが今日は違っていた。

このあとがどうなることか誰もが関心を持ったと思う。

機から跳び出た一番機のパイロットは騒音の中でも聞きとれる程大きい声で、きびしい剣幕で、どなっているようであった。

私は何だかその辺に居られない気持になり守備陣地へ戻ってきた。

大破ではないが二機被弾していたようであった。

 

○陸軍へプレゼント

夕方近く指揮所防空壕の屋根上で今日の戦闘の話しに花が咲いていた時、陸軍のトラックが一台我々の近くに来て止まった。

一人の下士官が我々に挙手の敬礼して

「海軍さん今日は有難うございました。実はお願いがあるのですが撃墜された敵機の残骸を頂けませんか、

徳島駅頭に展示して市民の士気を高めたいのです。」という。

既に我々の側には周辺から拾った破片がかなりの量盛り上げられていて、特にそれらの中で特異なシコルスキーの翼の銃口

付近の一部の破片が目玉的価値ある商品のように見えていたが、陸軍さんもこれを欲しそうな目付きで話しているように思えた。

然し「まだまだ周辺には沢山残骸がありますからどうぞ集めて下さい。

そして展示して下さい」と勝者のような気分で許可を与えた。

基地近くの民間人も昨日までと態度が一変した。

これまで目の前に海軍航空基地があっても敵機をやっつけることを見た例がなかったので、海軍さん駄目だと総スカンであったが、

この日の戦闘で二十機位の敵地が撃ち墜とされたのを目撃したのであるからやはり嬉しかったのであろう。

「海軍さん有難う、勇敢にやってくれましたね。」と貴重な握り飯その他の差入れをいただき有難い感謝の言葉を貰った。

この国と国民を護るための軍隊が内外の戦場で敗退のニュースばかり耳にする時に、溜飲を下げる快挙であったのであろう。

戦争は勝たなければならないのである。

 

○戦いのあと

翌二五日はまたもや敵機来襲であったが、前日と比べ小規模の攻撃であった。

然し隣の十一空廠が機銃掃射の反転攻撃を受け、殆んど修復できていたゼロ戟が破壊されたようであった。

今日も一機位墜とさねばと張り切って機銃を握ったが弾薬の残量が少いので点射をするよう伝達されていたため、

ケチケチしながらの射撃では命中する筈がなく撃ち墜とされる機は見られなかった。

この二日間で徳空に対する敵の攻撃は終った。

目的は達成されたのであろう。我々はこの二日間緊張の連続で、しかも乾パンばかりでさすがに疲労が感じられたが

士気は益々旺盛であった。

どこからギンパイしてきたのかへんてこな油と南瓜、レンコンなどを手に入れテンプラとしゃれこみ、

特配の酒で撃墜祝の宴を開いた。

何か変な味がしたが乾パンばかり喰っていたロなので少々の文句は贅沢と、久しぶりに腹を大きくして

七分隊機銃員全員の無事を喜んだ。

(この油はあとで潤滑油であることが判明したがすべて後のまつり、殆んどの者が翌日は下痢で腹を抱えた)

昨日今日と続いた空対地の大戦闘、我々機銃員としては実戦でこの機銃を射ちたいと腕を撫していたが

余りにも敵機の数が多過ぎた。

そして執拗であった。我々が想像していた以上のものであった。

今、生きているのが不思議なようで、皆思い思いにロをとがらし唾をとばしながら自分の戦いぶりや、

墜落する米機の最後について大気炎を上げ夜遅くまで戦果に酔った。

然し他の分隊では気の毒に死傷者が出ていた。直撃を受けた格納庫傍の防空壕に二七分隊の者が三〜四名入っていたので

探したが遺体が見つからないと聞く。

その近くの小屋で飼っていた馬が爆弾でやられ腸を出して死んでいる。

ある防空壕の入口に落下した爆弾で戸が飛ばされ破片で負傷し顔を真赤に染めてうなっている者、腕をやられたと

戦友に抱えられている者等々かなり傷ついた者が居るようであった。

救急用のバスが壊れた建物や爆弾穴を避けながら走り負傷者を収容している。

庁舎前広場にも不発弾が不気味に転がっておりぞっとする。一瞬の後に生じた地獄絵図であった。

延約百機に及ぶ大攻撃のため徳島空防衛の任は果されなかったが、我々は命を惜しまず予科練魂を十二分に発揮して

敢然とたち向かった。堂々と戦ったのである。

「誰がこんなに沢山堕としたのか」と防空壕から出てきた基地の上級士官連がいぶかったが、

誰でもない我々四十期飛練生だけで堕としたのである。(高射砲の二機だけは別)

私にとってこの二日間の、特に二四日における私のすべてを捧げて戦った実戦のさまざまの光景は余りにも強烈で、

私の脳裏に焼きついている。

私の二年足らずの海軍生活中、唯一度の、いや一生一度きりで勘弁願いたい戦争の悲惨を物語るものであった。

恐らく生涯忘れることはないであろう。

飛行場の穴の埋戻しは何はさておき開始されたようだ。然し傾き壊れ穴のポッカリあいた建物は手がつけられない。

昭和十六年開隊以来、数多くの海軍航空隊精鋭偵察員を練成、第一線に送り出し数々の武勲をあげ、また歴史に残る

白菊特別攻撃隊を送り出した我が徳空も六月二四日をもって事実上壊滅したといえるのであった。

それでも我々は日本が負けるとは考えられなかった。

徳空がやられた、えらいことになった、これからは益々苦しい戦争になろうが絶対勝たねばならない、一億の国民のために、

両親のために頑張るぞと我々は決意を固めた。

二六日も警戒配備が発令されたが、破壊された徳空にはもう米機は関心がないようで来襲機はなかった。

 

○徳島市B29に焼かれる

雨の降らない夜は、尾根に穴のあいた兵舎で寝るより陣地の砂の上で寝ることが多くなった。

砂に棒を立てベッド用の蚊帳をひっかけて宴るのである。

敷いた一枚の毛布から夜になってもまだ冷めぬ砂の温もりが背中に伝わる。

星は美しく輝き何も無かったように冷ややかに見つめている。

あの日私の機銃で火に包まれ墜落したシコルスキーが、今もその前を墜ちていくようだ。寝てはまたその夢を見る。

(復員後十年間位はその夢をよく見た)

月が替って七月三日夜、砂ベッドの上で寝ころび雑談していたとき姫路方面の空が赤く見えてきた。

B29は今故郷の姫路を焼夷弾攻撃で焼いているらしい。

火の手は益々大きくなったようで広範囲に赤い。

両親は無事かな、どうかご無事であるよう念じていたところ、醜きB29はその帰路徳島市にも焼夷弾を落したのである。

打上げ花火のように豪華に見える焼夷弾を次々と落し街は燃え上った。

八軒程も離れたこの徳空でも凄い火勢で何もかも赤く映える。

上空を悠々と、燃え具合を確認しているのか巨大なB29の飛翔ぶりが昼間のようにはっきり見える。

猛火のために赤色となった機体が赤鬼を想わせ、なぶり殺しするように低高度で街の上空を旋回している。

口惜しい、我が徳空には迎え撃つ戦関根はいない。

敵機のなすがままである。こうして街の大半は灰じんに帰し非戦闘員の市民からも多数の犠牲者を出したのである。

それからも毎日機銃陣地に配備していたが、全く何もすることのない退屈な日の連続であった。

破壊された徳空へ敵機の来襲はなく、飛練教務は勿論ない。

飛行機乗りになる目標はつぶされ、隊は破壊され我々は半ば自暴自棄であった。

川へ泳ぎに行った、うなぎとりをしたり、大八車で梨を買いに行くということが毎日の日課となった。

空襲以来、仮設烹炊所で食事の支給を受けていたが、以前と比べ極端に悪く、これまで喰ったことのないひどいものばかりで、

特に飛練生当時のカロリーたっぷりの食事が嘘のように思われるのであった。

 

○本隊から第二基地へ、そして終戦

このようにして約一ケ月本隊で無駄な日を送っていたが、この頃市場村で構築中の徳空第二基地が完成したので、

その防衛強化のため機銃員全員八月十一日新基地へ移った。

ここの飛行場は幅約一五〇位、長さ六〜七〇〇米位の小さなもので、飛行機が離着陸しない時は伐採した樹木などを置いて

カムフラージュしている。

掩体壕は数ヶ所あったが山に横穴をあけ飛行機を格納していた。

また民家を借上げ外観はそのままで、内部のみ若干改造して兵員の宿舎としていた。

まあ緊急避難時の小飛行場という程度のものであった。

着任後二度ばかり上空を飛行する米機を見たが、全く攻撃をかけてくる気配がなかったので、機銃を握っていた我々も

射撃はしなかった。そして八月十五日終戦の放送を聞いたのである。

二十年初めから多数の労力を使ってやっと飛行場を作りあげたものの、殆んど使用せず機銃員も配置して

僅か四日にして終戦であった。

然し「これはデマだ、陛下の声でない。海軍はまだ負けておらんぞ。」血気盛んで純真な我々飛練生は敗北を信じようと

しなかったが、なぜか流れおちる大粒の涙がややもすれば信念をくもらすのであった。

八月十七日夕刻から、夜を徹して爆弾や機銃弾を池へ投棄作業が行われた。

銃後の国民が汗を流して作ってくれた弾薬類を、米軍へ渡すよりはと在隊員総員で処分したのであった。

そして八月十九日飛行場に総員集合がかけられ、司令から

「本日をもって本隊を解散する。各員帰郷せよ」なる旨最後の命令が下された。

ついに日本海軍解散という数日前までは思いもしなかった最後の時となってしまった。

こんな無念なことがあろうか、我が帝国がいまだかつて味わったことのない敗戦、アメリカにこの日本が占領される、

そんな屈辱があってたまるか、私は断じて許せないと腸が煮えくり返った。

祖国の危機を迎えた昭和十八年、聖戦のもと学業を捨て、搭乗員になって国に報いようと予科練を志願、

そして入隊したその日から私の身体はお国に捧げたのである。

今戦争に負けたからとおめおめ故郷に敗戦兵の姿をさらせるものか、潔く、最後まで戦って軍人らしく死のうと決意した。

あちこちで僅かにあった車両や飛行機(白菊)を帰郷する者が取り合って乗りこんでいる。

また一水兵が日本刀を抜いて狂人のように何か口走りながら士官を追いかけ、誰かが無念晴らしか山に向けて機銃を

無茶苦茶に射っており、手機弾を投げているらしくあちこちで炸裂音が聞こえる。

また身の廻りをまとめた早い人はそれらを背負い「じゃ先に帰るぞ、元気でやれよ。」などと喜びに溢れた声を残して帰って行く。

これが帝国海軍解散状況であった。

然し私と同じような気持を持っていた者が何人かいた。

誰いうとなく「最後までやろうではないか、テロになって占領軍と闘おうではないか、貴様はピケする。」

「よしやろう」と忽ち十五名の同志ができた。僅かな人数であるが全員四十期飛練生の戦友連である。

他に予備学生出身の中尉が一名賛同し、我々は一塊りとなって団結して戦おうと誓ったのである。

主計科、武器科とも我々の申出に反対はなく、倉庫の鍵をくれ何でも自由にどうぞである。

食糧被服機銃等を大量に貰ったが運搬する車がない。

そこで付近民家へ行き懇願したり半ば強迫したりして馬車五台を用意してもらった。

 

○剣山中腹へ

それぞれの馬車に荷物を積載したが山盛りであった。

午後三時頃凄い炎天の中を落武者達は「海行かば」を口ずさみながら飛行場をあとにした。

馬車につき添って夜通し歩き続け翌二十日昼頃、剣山とやらの中腹で発見した空家の小屋を取りあえずの拠点とすることとし、

運んできた荷物を担ぎ入れ馬車を帰した。

前面には岩をかむ清流があり、山は高く周囲には木が繁り格好の隠れ場所である。

その日はぐったり疲れた体を休養、睡眠をむさぼった。翌日から周辺調査を始めた。

数名グループで別れそれぞれ武器を携帯して山野を歩き廻った。

山が深いので家のあるところは遠いようで、まづゲリラの住み家には実によさそうと思われた。

山の中で或る横穴を見つけたので武器を構え中へ進んで.行ったところ、そこは手榴弾、小銃弾が山積みしてある陸軍の

弾薬庫だった。

手榴弾は勿論使えるが残念ながら陸軍の小銃弾は我々の武器の口径が合わない。

まあ手榴弾でもこれだけあれば相当戦える、大収穫だと勇気百倍する。

二、三日は私を含め六名が食糧確保のため山を下った。

どう歩いたか二〜三時間歩いて豚を二十〜三十頭飼っているところを見つけ実にあつかましかったがよく肥ったやつを一頭

貰い受けた。

縄をかけ尻を叩くが思うように動いてくれない。

ついには豚の足を縛り棒で担ぎ坂道をふらふら、汗をボタポタ流しながら帰ってくるのだった。

途中山中の一軒家のおばあさんから味噌を貰い、借りた大八車に豚も乗せ大収穫に意気揚々と拠点の小屋に帰ってきたが、

留守役達は思いがけぬ食糧にびっくり仰天であった。

こうして一四〜五日、山中に居たのであるが情報がさっぱりわからず、既に占領軍が上陸したのか汽車は動いているのか

知りたいことばかりである。

 

○ついに下山、帰郷す

「下へおりて汽車が動いとったら一度帰郷して家の様子を見てきたいと思うのだが」と誰かがいい出し、

「それもそうだ、じゃ一度帰って確認したらまたここへ帰ってこよう」ということになり、

結局、中尉一人だけが残り全員帰郷した。

敗残の身でいまさら帰らないと言っていた私も重い足を引きずって郷里の姫路へ帰った。

幸い家は焼けず昔のままで両親も元気だった。

安心した私は直ちに廻れ右して家を出ようとしたが、母に泣かれ父に諭され遂に山に戻ることを断念せざるを得なかった。

(長兄は南方に征き生死不明、次兄は戦死)

山を下りる時、携行した品は全員雑のうに乾パン二袋、着換え下着が少々ぐらいと手榴弾二発づつであった。

手榴弾二発は若し米兵に辱かしめを受けようとしたら一発で相手を殺し、あと一発で自決するためである。

恐らく徳空本隊と第二基地を合せて一番最後まで戦闘行為を続けたのは我々であったろうと思われるが、

これも八月二四日に終止符を打ったことになるのである。

九月五日新聞に広告が出た。

四国の海軍航空隊勤務であった者は至急原隊に帰れとある。

何事であろう、私はすぐに行こうと思ったがまだ両親は離してくれなかった。

九月二八日頃二回目の新聞広告で漸く許され、懐かしの徳空本隊の隊門を五十日ぶりにくぐった。

隊門前の私等七分隊の機銃陣地は外観そのまま残っており、.シコルスキーを射った二十ミリ動力銃の無いのが実に寂しい。

隊内の建物は爆撃で大破されたものを撤去し、軽微だった建物だけをきれいに整理して残していた。

原隊復帰広告は占領軍に引渡し準備作業をするためであったが、第一回目の広告で帰隊した者や隊に近い者らが早く帰隊して

大変だ労苦で片づけてくれていた。

米軍に引渡し。これは軍人として忍びがたいことであったが、ことここに至っては止むを得ない。

すべての引渡準備は完了した。

久しぶりに七分隊の戦友に逢ったが山の戦友には誰とも逢えず、山に戻ろうかと思ったが涙を浮かべる母の姿を思うと

とても行けず、髪引かれる思いを胸に、支給された退職金九九〇円を持って再解員された徳空に永遠の別れを告げて

帰郷したのである。(山へ戻った者の有無は知らない。)

 

○回顧

僅かな期間であったが純真な少年期に一人の海軍々人として、また搭乗員になって国難を救おうと一途な心で猛訓練に耐え、

技量習得に練磨できたことは、戦後の混乱期にもしっかりした目標を定め生きがいのある人生を送り得たと思っている。

昭和二十年六月二四日私は戦争という名のもとで米搭乗員一名を殺した。

然し、かけがえのない数名の戦友を失うとともに徳空をも失ってしまった。

私はこの日を徳島海軍航空隊の命日と心に刻んでいる。

 

大西 尚男

更新日:2007/10/12