甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第 6号/ 昭和50年

大西 尚男

甲飛十三期 飛練四十期(呉志飛一六四七八)

「徳島航空隊の最後」

  

○鬼の徳島へ

昭和十九年九月二日、松山空の予科練教程を卒業した我々四二一名は、鬼の徳島と呼ばれ、特に厳しい訓練が

予想される航空隊での飛練教程に若干不安は抱いたが、これでいよいよ飛行機に乗れるんだ、搭乗員になれるんだ、

という一途な期待を胸に全員元気一杯で徳島空の隊門をくぐった。

七分隊、二七分隊、三七分隊の三ケ分隊に分れ即日飛練教程が開始された。

敢えて即日といったのは、隊門を入るなりビリッとするような気合の入った号令で衣のうを担いでの駈け足をやらされ、

緊張した中で夕食を終えてやれやれと風呂に入ればこれが水風呂と、入隊早々予想はしていたものの予科練とは

何となく違った厳しさを味わったからである。

翌日から掲示された教務予定表に基づいて、狂いなく規則正しい厳格な教育が始まった。

一日も早く一人前の立派な搭乗員にと四六時中鍛えられた。我々甲飛練習生の教員には甲飛の先輩も分隊に

一〜二名いたが、殆んどは乙飛出身下士官が当てられていた。

彼等は進級の早い我々甲飛の者が憎いらしく、また自分達が甲飛出身教員にしぼられたことに対するお返しを

我々にするようであった。

然し我々は絶対に乙飛に負けないぞという潜在的対抗心と、何としても搭乗員になるのだという目標のため何ごとにも頑張った。

種々の苦しい体刑にも根性をもって耐えた。

地獄の針の山をも辞せず登る覚悟を常に持っていたが、予科練当時ののんびりムードと違って、一ときと言えども

気を緩めることのできない緊張の連続であった。

飛行場では飛練卒業間近い三八期がやがて我々も乗る白菊で猛訓練を続けており、また、先輩連が新しく編成された

紫電戦闘機の慣熟飛行や、編隊飛行を日夜に亘って訓練を重ねるその轟音が、我々四十期飛棟生を激励しているようであった。

通信に、気象学に、航法に、射爆に我々は毎日全身全霊を打ちこんで修得に努めた。

昭和二十年に入って戦雲いよいよ急を告げ、米機の日本本土空襲の本格化が予想され、我が徳空でも対空用機銃を

要所に構築することとなり、私の七分隊は厳冬の数日を費して通信講堂東側の広場に防空壕と、およそ十ヶ所の境崇拝地を

作りあげ、そこに七・七ミリ、一三ミリ、二十ミリの機銃を据え、いざ敵機来たれと邀撃の準備を整えた。

 

○米艦載機初来襲

二月十八日午前、警戒配備が発令されたが、今日は何処が空襲されるのかな位に思っていた時、

突如米艦載機十七、八鹿が徳空を急襲した。

いつかは来るだろうと思ってはいたが全く突然に徳空上空に現われ、攻撃体制に入ったため隊員全部が慌てふためいてしまった。

敵機はダイビングして格納庫に照準を合わせ機銃掃射を浴びせてきた。

七分隊の機銃要員は銃にとびつき上空乱舞の米機に銃弾を撃ち達した。

これが徳空初空襲であり初の実戦である。

十挺の機銃からダダダ…力強い音を発しながら銃弾が発射されるが米機は一向に火を噴かない。

何度も反転して掃射を繰り返している。

機銃要員でない私は退避場所からひやひや首を出したり隠したりして戦況を見ていたが、全く火を出さない米機が不思議で、

また戦友達の下手な射撃が歯がゆくてならなかった。

然し遂に一機が白い尾を引きだした。「やったぞ」、「火を出せ」米機は尾を引きながら東の海の方へ遁走しだした。

速度も高度も落ちてきた。もうすぐ墜ちるぞと我々は最後の瞬間を見つめていたが残念にも視界内での墜落は

確認できなかった。

だが墜落は間違いなしと判断された。

約二十分位の戦闘で終ったが、先程の米機に致命弾を与えたのは先任搭乗員山村上飛曹であった。

飛練生達の下手な射撃を見ておれず俺がやってやると二十ミリ機銃にしがみついたそうで、

さすが実戦経験搭乗員は違うなとその差異を思い知らされた。

この空襲時には訓練が終っていた紫電戦闘機隊は、既に本隊から出撃したあとで練習機だけであったが、

格納庫に銃弾の穴を開けられた位で負傷者も皆無だったようでまことに幸せなことであった。

恐らく敵機は徳空の対空砲火の配備状態等を調べにきたのであろうと推察され、近いうちに本格的空襲があることが

十分窺われたのある。

 

○飛棟教程中止、四散

我々四十期飛練の当初の教務予定表では、二十年二月上旬から機上訓練に入り五月卒業であったが、

燃料不足とかで三九期の機上訓練も計画通り進んでいないらしく、またこれまで予定表どおり狂いなく実施されてきた

我々四十期の教務も変更が生じだした。

二月下旬になっても機上訓練が開始されない。

然し我々は近々開始されるだろうと期待は捨てなかった。

早く飛練を卒業して帝国海軍の海鷲となり、この手でこの体で敵空母を撃沈したい、

これが飛練生達の予科練当時から持っていた夢であった。

爆撃講堂における爆弾投下訓練やチャート作成、また七・七ミリ機銃による実弾射撃訓練にも機上作業近しと気合がこもり

毎日が真剣勝負の気持であった。

支那上海空からの編入者数十名も合流し猛訓練を続けた。

そして地上における教育課程は総べて終了し、今か今かと飛行訓練の開始を鶴首していた三月、

無情にも四十期偵察飛練生の機上訓練中止が決定された。

早く戦場へ馳せ参じ劣勢を挽回することが我々に課せられた至上命令であり、既に先輩に続けと特攻隊員を覚悟していたのに

何という苛酷な命令を下すのか、飛行機に乗せずどうせよというのか。

サイパン、硫黄島が陥とされ敵の包囲網はいよいよ縮まり、本土決戦間近と真剣に考えられ、練習航空隊であった

徳空が第十航空艦隊所属基地に編入等、愈々深刻な情勢となった。

この時に搭乗員養成は必要ないのか、反って急がねばならないのではないのか、他の分隊でも同じよう自分等の行く末に

ついて心配の話題が持ち上がった。

然しそんな苦悶の我々に容赦なく、艦隊司令部から飛行兵を諦め地上兵になるよう発せられたのである。

即ち伝統ある飛練航空隊であった徳空に、四一期を主体とする陸戦隊が編成され、我が七分隊の精鋭の一部が編入された。

市場に徳空分遣隊として秘密基地(第二基地)を建設中であったが、その方にも一部が応援に行かされた。

そして私を含む残りの約六十名が飛行機の燃料にする松根油掘りに撫養へ派遣された。

どうせ戦争に往くなら飛行機乗りになって手柄を挙げ、男らしく死のうと意を決し、予科練を志願し、十九年八月末卒業

そしていよいよ搭乗員になるんだ、どんな試練にも耐えるぞと勇躍徳空の門をくぐって九ケ月、本来ならば目出たく飛練卒業する筈

であった五月を待たずに、初志と異り思いもよらなかった方角に向って七分隊員は嫌応なく別れ別れに散って行かされたのである。

学生分隊にも何ら劣るところがなかった栄光の七分隊が何という哀れな結末であろうか。

他の二七分隊、三七分隊も大体同じように四散されたが、本隊が手薄となったため撫養行きの者の中から私を含め

約三十名が帰隊し、隊門前と松茂小学校の運動場に陣地を構え、十三ミリ、二十ミリ、二五ミリ、計十機の機銃で

来襲する敵機から徳空を守る任務についた。

二七、二二七分隊の一部も、飛行場周辺と十一空廠近くに機銃陣地を据え、それぞれ防衛の任務についたのである。

 

○白菊特攻隊出撃

沖縄では日米の死闘が連日連夜続けられており。圧倒的優勢な米艦攻撃のため九州の基地から連日特攻隊が

出撃していたが、五月に入り徳空からも我々四十期偵察の教員であっ乙十八期や、我々と同じ甲十三期であるが

二ケ月早く入隊の三八期、また日夜の教務に武道に、また体育に我々のよきライバルとして競ってきた十四期予備学生が、

特攻白菊隊に編入され、沖縄へ突っこんで行くようになった。

白菊、これは徳島空、高知空、鈴鹿空等にあって偵察機上作業に使う練習棟である。

これに二五〇キロ爆弾を搭載して、肉弾となって敵艦に突入するのである。

五月下旬、司令から別離の盃を戴きりりしい飛行服姿にきりりと鉢巻きをした稲子一飛曹、三浦一飛曹等の特攻隊員が

乗りこんだ白菊数機が、真白いマフラーをひらひら流し爆音を一段と高くしながら次々と還らぬ離陸をしていった。

私は「きっと後から行くからな、命中してくれ」と右手の帽子を高く大きく振って見送った。

高速の実用機でさえ命中率が低くなってきたと聞くのに、爆装で八十ノット位しか出ない鈍速の白菊が果して敵艦隊の近くまで

行けるであろうか、どうか神風のお加護がありますよう、見事敵艦に突入してくれますよう神に祈り見えなくなるまで

飛行場に立って最後の別れをした。

 

○B29白煙を噴く

サイパン島を基地とする米大型爆撃機B29による阪神方面への爆撃、および焼夷弾攻撃が繰り返されていた。

その往復時、大抵が紀伊水道を北上するため我が徳空の上空近くを通るのである。

飛行場の海岸寄りに設置されている四門の高射砲が一斉にB29に対し火を吐く、ヒュルヒュルと空を切って上昇する砲弾が

不気味に聞こえ、暫くしてバーンと炸裂するがB29の後方ばかりで命中しない、

銀色に輝く巨体を、誇示するがごとく、美しい飛行雲をどんどん作りながら高速で悠々と編隊も崩さず飛んでゆく。

我が高射砲など全く眼中にない無視したように堂々たるものである。

然し高射砲もだんだん上達したのか有効弾が出るようになった。

 

或る日、高度四〇〇〇メートル位で北上するB29の一群が接近してきた。

徳室上空近く来た時、待機していた高射砲が一斉に.砲門を開いた。

例のごとく目標の後方や下方で炸裂していたが、うちの一発がある機のすぐ傍で大きく炸裂した。

ぐらっと揺れたB29から白煙が流れ出した。

「やったぞ」我々は驚喜して凝視した。

徐々にスピードが落ち編隊から遅れ出した。

やがて脱落して只の一機となった。

そして白煙はますます大きく長く尾を曳くがなかなか赤い火が見えない。

しぶとい、どうなっているのだろう。

墜落は見届けられなかったが、緩降姿勢で白い煙を長々と曳きながら視界から消えていった。

通算三−四歳このようなB29を見たが、あの不落を誇る巨体に大きな打撃を与えたことは実に痛快であった。

その後、B29は高度を七〇〇〇メートル以上に上げて飛翔したため我が高射砲は届かなくなってしまった。

我々機銃員はB29接近の報が入り、第二(又第一)警戒配備が発令されるや否や機銃を握り発射しても届かない高度の

巨大なB29を歯ぎしりしながら照準し、発射操作の訓続を続けていたが内心は射ちたくてたまらなかった。

我が都市を蹂躙している醜い敵機を照準しながら射てない。

くそ墜としてやりたい。戦闘意欲はいやが上にも盛り上がるのだった。

そして運命の日、六月二十四日がやってきた。

 

○敵艦載機大来襲、シコルスキーを撃墜

この日は快晴で太陽は日の出後キラキラ輝き朝から暑い日を思わせた。

その頃は六時に起床後、直ちに機銃陣地に配備するのが日課となっていた。

朝七時半頃だったろう、当番の者が烹炊所へ朝食をとりに行ったあと突如第一警戒配備が発令され、

間もなく予科練当時から頭にたたきこまれてきた敵米艦載機の編隊が海岸線上空に現われた。

紀伊水道近くまで接近していたアメリカ機動艦隊から発進したグラマン、ポートシコルスキー、P51計延約百機の猛攻撃が

我が徳空に向けられたのである。二月の初空襲以来久々の本隊来襲である。

よし来て見ろ、四ケ月前とは腕が違うぞ、私は鉄兜の紐を締めなおし絶対撃墜してやるぞと右手に握る操縦桿に力をこめ

敵の一番機に照準を定めた。(私は一式陸攻搭載の動力式二十ミリ機銃を地上に据え射手担当)

東の水道側から松林上空に達した第一波約二十機に高度約一〇〇〇メートルで、きれいな編隊を組んだまま北に向きを変えた。

その時海岸に陣する四門の高射砲がこしゃくなとばかり一斉にダーンダーンと火を噴き戦いの火蓋が切っておとされた。

幸運にも数機編体のど真申で一発が炸裂した。

忽ち二機が煙を出したと思ったら炎に包まれ塾ちてきた。

「ワーやったいいぞ」目の前で墜落する敵機を初めて見た。

星のマークが赤い炎に包まれている、我々の血は燃え上がった。

不意を喰らった米機は一斉に散開、そして一列縦隊となり飛行場北東上空から太陽を背にして急降下で突っこんできた。

さあ来い私は一番機にピクリと照準し発射のレバーを引こうとした時、突如予期しなかった黒い点が翼下から離されたのを認めた。

ぐんと加速し猛スピードで近づいてくる、よく見ると六発の爆弾である。

然し幸い爆弾がやや長く見える、

これなら離れたところへ落ちる、大丈夫だと思いながら生意気な一番機を堕とさねばと初弾命中を祈って左手のレバーに力をいれ

怨念の銃弾を発射した。

ダンダンダン力強い連続発射音を発しながら銃弾が飛んで行く。

初めて射った二十ミリの手応えは七・七ミリなどと違って、さすがに頼もしく心強く感ずる。

私の必死の願いをこめた曳光弾が、次から次へと敵機に向って光線のように走って行くが目標機の周辺を交叉して飛び去るばかりで

無情そのもの、なかなか命中してくれない。

先程編隊を散開する前に離した落下増槽の一個が運悪く烹炊所の建物に落下、猛火煙を上げて燃えている。

第一弾で二機撃ち落とした高射砲隊は敵機に狙われ執拗な攻撃を受けていたが全く沈黙してしまった。やられたな全滅かな、

私の若き血潮は直面した初めての戦いに煮えかえるようであったが、さっぱり命中しないため焦操を感じてきた。

くそーヤンキーめ、兄(甲飛十期、既に戦死と聞く)の仇をとる絶好のチャンスなのに、この機を逃がしてなるものか

神様命申しますようにと射ち続けた。

次々と急降下する機ばかりを狙って射していた私は、飛行場方面から私の陣する隊門の方に向って援降下で機銃掃射をしながら

近づくポートシコルスキー一様がふと目に入った。

翼の曲った特徴あるやつだ。

よしこいつだ、私は操縦桿を右に倒し、シコルスキーの進行方向前方に照準を合わすなり左手のレバーに力をこめた。

銃口から尾を曳くように飛び出た二発の曳光弾が、もう一〇〇メートル位の目前にまで接近していたシコルスキーの頚部に

吸いこまれ消えた。

瞬間ガクッと姿勢の崩れる操縦士がはっきり見える。

そしてメラメラと赤い火がエンジン部から噴き出し見る見る大きな炎となり、超低空のまま小学校の建物の向うへ消えていった。

暫くして大きな火煙の塊が遠くで上がるのが確認できた。

「やったぞ。十郎兄さんの仇をとったぞ。お父さんお母さん僕はやったよ」心の中で大きく叫んだ。

体内の血は興奮し逆流し早鐘を打っている。夢のようだ。

然し夢ではなかった。

また新たに第二波の編隊が襲ってきていた。

次から次へと爆弾を投下し機銃掃射を繰り返す。飛行場の方では何でやられたのか黒煙が猛々と上っている。

二七分隊、三七分隊の陣地からも元気よく応戦しているようだ。

あちこちの上空で敵機が墜ちて行く、

紅蓮の炎に包まれ火だるまのグラマン、煙を曳きながら錐もみで墜ちるP51、銑弾命中空中分解して折からの夏の太陽に

キラギうとジュラルミンの破片を反射させ胴体だけが爆弾のように落下するさま等、生死をかけた全く凄惨な豪華絵巻である。

然し米機も勇敢で執拗で、なかなか引揚げそうにない。

またもや新しい編隊が加わり反転攻撃を繰り返す米機が何十機も上空を乱舞している。

 

○機銃故障、合掌す

私は気をとりなおし、もう一機壁としてやろうとある機に照準を合わせ射撃を始めたが、間もなく九〇発詰めていた弾倉が

空になってしまった。

急いで新しい弾倉を装填してレバーに力を入れたが弾が出ないのである。

おかしいぞ、何度レバーを引いてもやはり出ない、はやる心で弾倉を外し装填しなおしたがそれでも手応えがない、

「ちくしょう」。ふと見た東の方からは一機の米機が機銃掃射の目標を私に定めているのか真一文字に接近してきた。

機銃弾の穴が砂の上を直線になって走ってきたかと思ったら、ほんの三メートル程横を走り去った。

空から米機の薬莢がばらばら落ちてくる。全速のエンジンの轟音がすさまじい。

こんな時に故障とは、くそー。

然し今まで無我夢中で射っていた時は全く怖さを覚えなかったが、応戦する武器が使えなくなり一方的受身となった瞬間、

私の体に恐怖が走った。

そして弾の出ない銃を諦らめ退避することに決め、他の二名(三名で一陣地構成)に故障だ。

弾が出ない。体をかくせと指示し銃座から離れながら、ひょいと北の空を見ると新たに急降下の機から離された爆弾が

猛スピードで向ってきていた。

何とそれは六発ともまん丸く見えるではないか、自分にドンピシャリ向いているのである。

敵機も自分に一直線である。

私は「これは駄目だ、死ぬ」と瞬間思い、ここへ落ちるぞと戦友に知らせ手を合わせた。

ガーンと鳴る頭の中で「お母さんお先に行きます、お父さん有難うございました」と別れを告げ、ややバラバラに拡がって

ついそこにまで近づいた六発の黒っぽい魔物を凝視した。

頭上をかすめたなと思った時、隊門横の病室建物に全弾落下爆発した。

私から約三十メートルの距離だ。耳をつんざく爆発が起り一度空中高く浮上ったように見えた建物が次の瞬間バラバラ、

ペシャンコに潰れてしまっていた。

爆弾の威力の物凄さをこの目ではっきり確認できた。

何とか直撃による死は免れたらしいぞと思ったが、破片か何かが飛んできて本能的に隠している頭の鉄兜にカンカン当たる。

ガーンと鳴る頭の中でいよいよ今死ぬぞと体をまるめて最後の来るのを待っていた。

暫く経った。

私には神か仏の加護があったのか武運強くかすり傷ひとつ受けていなかった。

今死ぬぞという心境であったのに無事一難去ったらしく私は助かっていた。

反転攻撃を執拗に繰り返した米機はやがて引揚げるようで、いつの間にか上空に居なくなり僅かに水道方面に

数機の後ろ姿だけが望見された。早朝から約二時間位の死闘であったと思う。

 

大西 尚男

更新日:2007/10/12