甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

関西甲飛十三期会 公認ホームページ

 

会報「總員起こし」  第31号/平成15年

大石 猛

関西海龍会

「城ヶ島・油壺沖 漂流記」

   

平成十四年、年頭の関西甲飛十三期会役員会で、後藤 堅会長より無言で手渡された一冊の本。

学研発行の「歴史群像」太平洋戦史シリーズbR6「海竜と回天」というものだった。

「海竜誕生」までの上層部のご苦労は、我々元搭乗員として、大体の事は認識している心境だったか、五十数年経た今日、

よくもあれだけの資料を集められたものだと、今更ながら感動している次第です。

当時はまさに国家存亡の危機。

有識技術将校、またそれに携わった大学教授達諸氏には、本当に頭の下がる思いである。

 

さて、本題に入りますが、実戦に携わった一員として、自分に関連する箇所を読ませて頂き、ちょっと感じたことがあったので、

実際に遭遇した事を思い出しながらペンを走らせた次第です。

まず、この本の私に関連した部分を抜粋し、紹介させて頂きます。

 

幻の「海竜隊出撃」

昭和二十年八月上旬、敵大艦隊発見の報に油壷の第十一突撃隊は色めきたった。

搭乗員全員で軍歌を唱和し、全艇電装整備の出来た艇から千葉県の九十九里浜へ出撃していった。

併し、久良知大尉の搭乗艇が城ケ島を越えた辺りで誤報と判明、直ちに全艇に帰投命令が下された。

が、併し一艇だけ無線機故障のせいもあったが、今更帰れるかと思ったのか九十九里浜まで行き、更に伊豆の真鶴沖に寄って、

翌日の夕方にようやく油壷基地に帰投したという珍事かあった。

久良知大尉は、当然ながら命令違反として搭乗員二人を厳しく叱責したのである。

抜粋以上。

 

昭和二十年八月初めの深夜「搭乗員総員起こし」の出撃命令が出され、ドキッとして飛び起きたものの頭がボーッとし、

正気を取り戻すのに約二十分ぐらいはかかったと思う。

そのうち、頭も冴えて正気に戻り、とっさに両親の顔が浮かんだが、感傷はそこまで。

「よし!やったるで」と、武者震いした事が記憶にある。

艇長の川田兵曹と、湾に係留してある自分たちの艇(あ二二四号艇)まで駆け下りた。

もう整備員らが、出港準備に頑張っていてくれた。

搭乗員整列−。隊長久良知大尉より訓示を受け、全員で軍歌「元冠」を合唱し水盃で乾杯。

乗艇、出港、目的地へまっしぐら。

真っ暗闇の中、艇長は特眼鏡と海図を照合、位置確認をしていただろうが、正直な話、操縦員の私には皆目分からず、

ただただ艇長の指示どおり操縦するしかない。

この暗夜の海上で標的艦船を探したが、なかなか見つからず露頂潜航で航走していたが心細く、浮上してエンジンを止め

漂流したりしながら、海中から海上、何とも口でいえない俺しい気持ちが沸いて来た。

雑誌では誤認だったと言う事で全艇に帰投命令があったとあるが、私には符に落ちない、やはり無線機の故障だったのか?。

受信していれば川田艇長は必ず私に言ってくれていたと思う。

然し私達の一艇だけが迷子になり脱落していた事は間違いない。

さあ!これからどの航路で航走すれば帰投できるのか、ハッチ上に二人が交替で上がり、沿岸の夜明けの薄暗い灯りを頼りに、

こっちでもない、あっちでもないと探ったものだった。

又、それが城ケ島沖か油壷沖かも全然見当も付かず、燃料、電池の消耗を防ぐ為、海上・水中とも細微速で航走、

やっと夜が開け、沿岸の様子を捕まえ大体の位置を把握することが出来、二人とも手を取り合いホットしたものだった。

あとは基地へと帰投準備にはいり、昼前後には無事基地へ到着できた。

嬉しかった。ヤレヤレと一度に全夜来の疲れも吹っ飛び少々のお叱りも覚悟の上、この様な事が二度となき様お互いに

励ましあったものだった。

雑誌には翌日の夕方ようやく帰投したとあるが、私達は覚悟はしていたものの、ある程度の注意事項はあったが、

それ程印象に残るほど叱責された記憶は無い。

まして久良知大尉という上官は決してその様な野暮な人ではない。為念。

あの時の出撃艇はたしか六艇位だったと思う。

何分にも半世紀も前のことでもあり、私自身も忘れた事も多多あると思うが、文中に「今更帰れるか」とは全然思ったことは

なかったし、心底から信号兵の誤報がない限り、今度こそは徹底的に探し、突っ込んでやるという一念で一杯だった。

今現在でも当時のそんな気持ちは充分残っているつもりだが、その事で妻からもいつも叱られているのが現状である。

 

大石  猛

更新日:2007/10/12