甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

関西甲飛十三期会 公認ホームページ

 

会報「總員起こし」  第31号/平成15年

奥野 敏夫

奈良空−川棚−高雄(第二十震洋隊)

「震洋 沖縄戦に散る」

 

この稿は、第二十二震洋隊の久保守大君(旧姓宮下)の依頼により、提供された資料に基づき執筆したものです。

文中「彼」とあるのは久保君のことです。

 

奈良空から川棚訓練所で錬成された甲十三期の震洋組は、十九年暮れに前線に向かって進出。

第一陣の二十震洋隊を乗せた船が出港翌日、船首に雷撃を受け佐世保港に引き返し、港口で二十一房洋隊の船と

すれちがった噂は聞いた。

沖縄が任地の彼ら二十二震洋隊は、翌年の一月二十四日に那覇港に一旦入港。翌々日、目的地の金武湾に到達すると、

さっそく震洋艇の格納壕を手始めとして基地作りに精を出した。

数日後の二十八日、一〇一震洋隊の船が津島海峡で雷撃を受け、救助された搭乗員は、わずか三名だったことは

知る由もない。

また沖縄を越え石垣島に向かった三十八震洋隊が、敵機の襲撃により三十二名の搭乗員を失ったのは三月一日で、

沖縄戦の前触れを予感させていた。

三月十四日、もたらされる情報から、空襲はないとの部隊長の判断で、艇の整備を兼ね航路展開と習熟訓練が行われる

ことになり、基地隊員も総出で艇を搬出し、水面に浮かべた。

訓練は第一艇隊の艇を使用し、第一・三艇隊の搭乗員が乗艇して操縦は交替する計画で、準備の整った艇から

部隊長艇の周囲に集合した。

誰かが 「勝連半島に大型機」と大声で叫んだ。

勝連半島は金武湾の南に位置し、外洋に突き出ている。

部隊長の双眼鏡にはコンソリデーテッドB24か映った。

機影を指差し「コンソリデーテッド」「散れ」の部隊長の号令に発進寸前の各艇は、とっさの判断で全速散開した。

一艇隊三小隊四番艇の彼−つまり久保はハンドルを握り、見張りの三艇隊の阿諏訪兵曹に「行くぞ」と怒鳴ったが、

方向確認の暇もなく、スロットルレバーを全開し夢中で驀進。

ふと気づいて前を見ると、眼前にコンソリの前部銃座。射撃している敵搭乗員の顔が見えた。

エンジン音にかき消されて銃撃音の恐怖はなく、艇の進行方向が半島に向かっていることを、ようやく悟った。

すなわち敵機の真下を突き進んだ訳である。

後部銃座からも銃弾の雨が降り注ぎ、二人の幅だけ残して通過していったが、艇は弾痕で穴だらけになり、

徐々に浸水が始まった。

やむなく艇から抜け出したが、敵機は上空を旋回し、新たな獲物に銃撃を繰り返している。

二人は、波間から挙手の敬礼で艇に別れを告げた。緑色の船体に自学で書かれた134の艇番号は今も目に焼き付いている。

艇の沈没後、後には何も浮いていない。飛行服の上に救命胴衣を着けた二人は、波間に漂いながら救助を期待し、

岸辺に向かっていくと、同様に漂流している森川兵曹の姿が見えた。

敵機の襲撃は銃撃だけでなく、第二、第四艇隊が乗り組んでいた大発艇に向かって爆弾を投下したと見え、

その流れ弾の水中炸裂による水圧で、前後三回も体が飛び上がった。もちろん初体験だ。

目の前に、これも水圧にやられた大きな魚数匹が浮かんで、フラフラと近づいた。ちょうど敵機は四回目の銃爆撃を終え、

北の方へ飛び去った後だったので、さっそく捕まえて救命胴衣の三段の紐にくくりつけた。

間もなく、森川兵曹のペアの宮本兵曹も合流。波間に救助艇の往来を見た四人は、声を合わせて叫び続けた。

特に大波が来た時は、声をかぎりに助けを求めた。

聞き慣れたエンジン音を耳にした時、震洋艇かこちらに向かってきた。部隊甲板下士官の松尾一等兵曹が艇上に

仁王立ち。最初に宮本兵曹が救助された。

「ここまで泳いでこい」 の声に、彼も一〇メートルほど泳いで艇に上がった。

松尾兵曹か尋ねた。

「怪我はないか。その、前にぶら下げているのは何だ?」

「甲板下士、怪我はありません。吊っているのは魚です」 

松尾兵曹は言葉を続け「大変なんだ。たくさんの戦死者と負傷者だ」

四人を救助した震洋艇は喫水線ぎりぎりで浜辺へ急いだ。助けられた安堵感で、この艇を誰が操縦していたか、

彼は思い出せない。

浜辺は惨憺たる状態で目を覆うが如し≠ニは、このことかと思われた。

戦死した本吉武徳、小橋泰造、鈴木唐の三兵曹の様子は、とても見ていられないほどで、その場所に彼ら四人は上陸した。

重傷者の何人かは担架で金武小学校に運ばれたが、次々に息を引き取った。

 

それからは連日、後始末に追われた。

この日の戦死者は、乗艇訓練の一艇隊が一名、観戦組の二艇隊が六名、四艇隊か七名で計十四名。

十三日後の三月二十七日、沖縄根拠地隊司令部から、適宜特攻出撃を行うよう命令があり、

その夜に第一回の出撃をしたが、会赦せず引き返す。

三十日夜にも二回目の出撃をしたが、同様だった。

しかし基地の存在は既に敵の知るところとなり、執拗な空爆下にさらされて、人的被害はなかったものの多くの艇を消失した。

それにも増して、基地施設の破壊は大きな痛手となった。

懸命の努力で、残存艇のうち五隻を海面に浮かべることが出来たのは、四月三日夜半のこと。

指揮は豊廣部隊長が取ることにし、以下九名の搭乗員を指名して、直ちに出撃した。

一番艇  豊廣  稔   宮本哲舟◎

二番艇  中村統明◎ 岩田昭郎

三番艇  市川正吉◎ 鈴木音松◎

四番艇  野田義郎◎ 阿波孝守

五番艇  箕浦元吉◎ 宮下守人

 (◎印は戦没)

 

彼は当初、五番艇の見張り。湾口から太平洋に出て間もなく、操縦交替で箕浦兵曹がクラッチを踏んだが、機関故障で停止。

修理を急ぐも不可能。一時間ほど経ったころ、突如、四番艇が近づいた。

「お前ら、どうした」と聞かれて「エンジン故障」 と答えた。

「もう間もなく夜が明けるから早く艇を処分して、俺たちの艇に乗れ」 と阿波兵曹。

急いで乗り移り、北の方向に向かって航行を開始し、四日の早朝久志の浜に乗り上げた。

四名の搭乗員は丘の方へ歩き、ある橋の下で昼間は動かずに眠った。

暗くなってから、金武へ帰ろうと相談し、宜野座まで来たところ陸軍の一ケ小隊と遭遇。

指揮官の鈴木曹長の意見に従い、行動を共にすることにした。

そして東海岸を一路北上し、海軍記念日までは一緒だったが、以後陸軍と別れて別行動することになった。

野田兵曹は、北部の山中を彷徨するうち彼らと別れたのが最後で未だに不明。

また箕浦兵曹は彼と二人で歩いていた時、山の中で大変大変の連続。芋を分けて食べたのが、最後の別れだったようだ。

結局、四月三日の出撃では、市川兵曹と鈴木兵曹の二名が、先任搭乗員の面目に賭け、目的を果たしたのだった。

 

(筆者註)提供資料に基づき、第二十二震洋隊戦没者の刻銘を精査したところ、三十一名のうち二名が生還している

ことが判明しました。

三月十四日以後の戦死者記録には不明箇所が多いか、沖縄戦史を参照して、無理からぬ事とうなずけます。

続きは別の機会に。

 

奥野 敏夫

更新日:2007/10/12