甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第24号/平成 8年

奥野 敏夫

奈良空−川棚−高雄(第二十震洋隊)

「東支那海波たかし」

 

昭和十九年十月二十二日、震洋講習を終え佐世保に向け川棚を出発した。その日遠く南方洋上の

ブルネイでは、栗田艦隊がレイテに向かって出撃した事は知る由も無かった。

十一月八日、佐世保で乗り込んだ「美保丸」は四千屯級の新造船で逞しく感じられ、私たちは十三

期の震洋第一陣として意気軒昂たるものであった。

大牟田湾で編成された十隻の船団は、海防艦と駆潜艇数隻に護衛され「美保丸」を最後尾にした隊

形で、基準針路を北西に進んだのは日没前であった。

翌十一月十一日、〇九一五、まだ五島列島の島影が見え隠れする海域で空と海は真っ青であった。

見張りは船首と船尾の両舷に付き、震洋隊の搭乗員は信号要員として船橋で当直に当っていた。

甲板には朝食後の一服を吹かす人影がまばらで、長閑な一刻でもあった。

船団が更に北寄りに針路を変針して間もなく、何の前触れも無く「ズドーン」と鈍い衝撃音と同時に左

舷船首からどす黒く太い水柱が高々と上がった。船首両舷の四人の見張りは吹き飛ばされたようで

ある。前甲板にいた者は慌てて後甲板に逃げ、落下する水柱を避けた。

船倉内の裸電球は一瞬消え、船首に近い居住区の第二船倉のハッチからは落下する水柱がドッと

流れ込んだ。瞬間の暗闇に水飛沫では沈没と早合点するのが当然、吾先にと狭いハッチの梯に群

がり殺到し、その時の凄まじい模様は後々までの語り草となる。

船団は左方向に一斉回頭し前進を続けて次第に遠ざかる。これが戦場の掟というか、傷ついた方は

置いてきぼりか、心細い限りである。雷撃直後船体は一時船首方向に傾き緊張したが、浸水は第一

船倉にとどまった様で、少しは冷静さを取り戻した。

駆潜艇がこちらに向かって来て、進行方向の海面に爆雷を投下し始めた。ズシンズシンと鈍いが海

面を切り裂く響きに戦場の初体験を体一杯に味わう。駆潜艇が船団の方に引き返し去っていくのと

同時に、上空に爆音が聞こえ水上機が接近してきた。上空を旋回しながら発光信号を繰り返し、終

わりに低空から通信筒を上甲板に投下して佐世保の方向に飛び去っていった。

船内では各隊の人員点呼も終わり「美保丸」は反転航行に移った。船首が沈んだ分、船尾が持ち上

がりスクリューが時々海面にその姿を見せる格好で、喘ぎ喘ぎ東に向かっての単独航行である。

危険な夜の航行を避け、とある無人島の岩陰に錨を降ろし仮泊した。

「美保丸」に損傷を与えた敵潜水艦チームは、この頃比島海域から移動、既に黄海の南端までの東

支那海に布陣していた。この潜水艦チームはレイテ沖海戦の残存艦隊を待ち伏せる役目を担ってい

て、前月の廿四日にも済州島南西沖で比島救援の船団を夜襲している。

「美保丸」を含めた船団も、震洋部隊四隊(十二、十四、十五、二十)の海軍部隊三隻と、陸軍海上

挺身隊(震洋と類似のマルレ艇)二個戦隊が大型輸送船六隻ほかに分乗した強力な比島救援派遣

部隊であった。

「美保丸」を置き去りにして先を急ぐ船団には、第十二震洋隊を積んだ速度の遅い老朽船が含まれ

ている事を敵潜チームは見逃す事無く、追跡又は先回りして攻撃の好位置を占めた。それは出発二

日目の夜明け前であった。

第十四、十五震洋隊便乗の「玉洋丸」は中央部に受けた一発の魚雷で航行不能、殆ど同じ頃マルレ

艇搭載の「鳴尾丸」は瞬時に大爆発、轟沈。船団は隊列を乱し混乱し、二時間後には陸軍組の「辰

照丸」が三本の魚雷を受けて沈没。

「玉洋丸」は漂流中を海防艦に曳航され上海に向かっていたが真夜中過ぎ、魚雷二発を受け、とど

めを刺された。

私たちが便乗した「美保丸」は、船団の惨劇を知る由も無く、翌十二日陽が昇るのを待って、よたよ

たと佐世保に向かった。そして夕暮れ迫る佐世保港口の外で高雄に向かう第二十一震洋隊が便乗

の輸送船とすれ違い互いの健闘を祈る。

彼らの船団は十一月十七日、同じ海域で大型船二隻と護衛空母「神鷹」を失った。

第十二震洋隊を乗せた老朽の「神福丸」は、単独航行で基隆から高雄に向かう途中、ブルネイを発

し内地に回航する「大和・長門」主力の栗田艦隊とすれ違う。その艦隊は十一月二十一日未明、台

湾北部の東支那海で待ち伏せていた米潜水艦の魚雷攻撃で、戦艦「金剛」、駆逐艦「浦風」を失い、

二十三日母港に到着した。

十二月九日、私たちが再度出撃の便乗船は「第一東洋丸」と云い、石炭炊きの二千屯未満で船首

区画の無い老朽船で、擦り傷でもおだぶつと覚悟せざるをえない。

翌朝、錨を上げ港口に向かうと、艦首をもがれて大きく右に傾いてブイに係留された空母と、その

真後ろに赤茶けた大型艦の姿が目に飛び込む。空母は前夜半、野母崎南西五十海里の海面で米

潜水艦の攻撃で右舷機関室に被害を受けた「隼鷹」で、武蔵の生存者二百名が便乗。大型艦は

巡洋戦艦「榛名」であった。

再度の船団出撃は更に北寄りのコースになり、寒気厳しく甲板には結氷が見られ、悪天候が続く間

に船団から見放された老朽船が単独航行で高雄要港に着いたのは十二月二十二日であった。

そして約一ヵ月後の一月二十六日、門司を出港し基隆に向かった船団に含まれた「讃岐丸」には、

震洋五型艇の一〇一震洋隊(西田部隊)と一型艇の四十三震洋隊が便乗し、三日後の一月二十八

日午前二時頃、朝鮮半島南岸西方沖で被雷海没。駆逐艦「神風」に救助された西田部隊の十三期

は夏目秀武氏ほか二名のみであった。

比島沖のバシー海峡は「人食いふか」で怖がられたが、東支那海の事故では震洋の積荷の爆発が

激しく、被雷即沈没で多くの人命を呑み込んだ。

私たちの例は稀有であろう。

 

               

昭和20年 第20震洋隊(手前右)                         平成 9年10月19日 奉天での慰霊祭

 

  

平成14年 4月14日 殉國之碑慰霊例祭にて(左)日日日日日日日日日日日日日日日日日日日日日日日日

隣は「予科練甲十三期生・栄光と落日」の著者・高塚 篤氏日日日日日日日日日日日 日日日日日日日日日日日

日日日日日日日日日日日日日平成14年12月 1日 関西甲飛会「貴様と俺と翼の碑」慰霊祭/大阪護國神社にて

 

奥野さんは平成17年 9月 5日にご逝去されました。日日日日日

日日日日日関西甲飛会「貴様と俺と翼の碑」の玉垣に ご生前を偲ぶ。

 

奥野 敏夫

更新日:2007/10/12