甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」 第 35号/平成19年

岡田 純

奈良空−回天振武隊(伊367)−回天多聞隊(伊367)

「回天選抜奇談 続編2」

 

前号まで大津島への100名の転属と、回天との初対面とのこと、将又居住区の事どもを記したが、これから愈々

本題の方に入って行くことにしよう。

 

『回天に乗るまで』

当時の大津島は十二月末の出撃を控えて、金剛隊二十四名(潜水艦六隻)の仕上げ過程に入って居り、唯でさえ

不足している的(回天の部内呼称)は、これら出撃予定者によってフル回転しているので到底我々にお鉢は廻って

来ない。そこで次の様な日課の繰り返しとなる。

即ち、@回天の機構・操縦法の座学、A方位角・距離の測定実習、B追躡艇・目標艦に同乗しての監視と効果の

判定、C夜の研究会の傍聴など、以上のうち全員出席の研究会を除いては、十ヶ班(三ヶ班は土浦空出身者、七

ヶ班は奈良空出身者)に分かれ、交替で実施して行くのであるが、此の中で最も緊張を要するのは追躡艇勤務で

ある。

回天は長さ一米の特眼鏡で観測するのであるが、水面上には七、八十糎しか出ない。従って視認距離も視界も

限られているので観測を誤った場合の事故が結構多かった。その中で死に繋がった開隊以来の殉職事故を原因

別に記すと次の如くである。

(1)海底突入    一基二名  大津島

(2)漂流凍死    一基二名  大津島

(3)ガス中毒    一基一名  光

(4)船舶に激突   四基五名  大津島

.             一基     光

..            一基     平生

(5)島に激突        一基一名  光

(6)触雷       二基三名  大津島、平生

(7)原因不明    一基一名  光(昭和20年 7月25日 行方不明、昭和20年 9月20日 漂着発見)

以上のうち(3)(6)は追躡艇では防止不能であるが、他の事故は荒天時を除いては防止不可能ではない。九三

式魚雷は無気泡魚雷ではあるが、訓練用回天には燃料に緑色染料を混入してあるので気をつけてさえいれば雷

跡は見える。危険を予知して発音弾を投下すれば搭乗員は水中に於いて回避操作をするので、投下時間が遅れ

なければ助かる可能性はある訳で、その意味での追躡艇の任務は重大であった。

しかし、航行艦襲撃の訓練に入ると、一艦から五〜六艇が一分おき位に発進し、然かも全速三十節で二回反復

突入するので本数に応じた追躡艇を配置する余裕は勿論ないし、若しあったとしても、とても無理な訳で、むしろ

回天同志の衝突が無かったのが不思議な位であった。

夜の勉強会も亦真剣である。本部は狭いので我々の畳敷き兵舎が会場となるが、指揮官を始め全搭乗員と整備

科関係者、それに潜水艦発進があった場合は、当該艦長及び幹部が出席して行われる。

その日の各的の状況が順調であった場合はスムースにお開きになるが、問題点やミスがあると、士官と雖も容赦

ない質問、叱責が飛び、本人の立ち往生も度々であった。

この研究会では下士官搭乗員も自由な発言を許されていたので、当初は拝聴するのみであった我々も搭乗を重

ねて技量に自信を持ってからは、日頃偉そうにしている士官には一寸ワサビの利いた質問をして慌てさせて、密

かに拍手喝采すると云う悪さもした。

これも入隊も訓練開始も士官・下士官に差のない回天隊の特色であったのである。

 

『大津島での休日』

前述した如く回天の訓練基地としては、光・平生・大神の各基地と比べれば最適であったが、休日を過ごすと云う

面では最悪であった。島内でも基地外への外出は禁止で、例え出れても漁師の家が散在するのみで、何処にも

行く所が無い。

又、月一度の徳山への外出も、大発で一時間を要し、勿論赤線厳禁で隊が借り受けた山側の毛利邸で寝ころが

って、主計科が庭園で煮炊きした昼食を摂って帰るだけと云う、味けなさだったが、志気は衰えていなかった。

それは、大津島こそ回天の聖地であるとの誇りが、それを支えていたと云えるのではなかろうか。

 

平成18年10月25日 橿原神宮・軍艦瑞鶴戦没者慰霊祭にて

 

  

平成18年11月12日 大津島・回天烈士追悼式にて(右)  平成19年 4月 8日 橿原神宮・甲飛十三期慰霊例祭にて

 

岡田  純

更新日:2007/10/12