甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会
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会報「總員起こし」 第 31号/平成15年
岡田 純
奈良空−回天振武隊(伊367)−回天多聞隊(伊367)
「回天選抜奇談 その三」
『Q基地から光基地へ』
昭和十九年十一月12日、大迫のQ基地で仮住まいを強いられていた回天搭乗員総員(大津島への先行者
を 除く士官・予備学生および生徒と我々奈良空出身下士官)は、荷物もろとも白銀丸に乗船し海路一筋、光
の岸壁に着いて上陸第一歩を踏み出した。
光基地は、光海軍工廠に隣接する工員養成所の全施設が、それに当てられていた。松林を巧みに生かした
広大な敷地。本部は木造二階建てで、ここには士官宿舎も収まっていた。
我々下士官搭乗員の居住区は、同じく二階建ての養成工員宿舎。居室は一室8名で、頑丈な二段ベッドに
机 や椅子が備わり、荷物はベッドの引き出しや天袋に入れて整理することができた。
劣悪な住環境に悩まされ続けてきた我々奈良空出身者には、入隊以来初めての好環境、まさにご満悦の体
であったのだが・・・。
いずくんぞ知らん、中の100名にとって、この快適な期間もわずか二旬だけ、後は元の木阿弥どころか海軍
在 籍中最低の状態に置かれるとは。お釈迦様でも云々・・・となるのであるが、それは後日の機会に譲って、
話を元に戻そう。
このように完備した居住区の他に、基地として最も重要な魚雷調整場も、すでに建物が完成し、岸壁も整備
され、 前に見学したP基地(特潜基地)に優るとも劣らない充実ぶりであった。
ところが、肝心の回天がまだ到着しておらず、搭乗員はQ基地での訓練の蒸し返しや工廠の見学、地形偵察
を 兼ねた隊外行軍などでいたずらに時を過ごしていた。
そうこうするうち十一月二十五日、菊水隊がウルシー環礁とパラオコッスル水道に突入し、大戦果を挙げたこ
とが、部外秘として発表された。
粛然たる思いと共に夢が現実となった実感が胸に迫り、この日を境に、基地全体が殺気立ってきたのを覚え
ている。
(註)大本営が、回天の存在を秘匿するため神潮特別攻撃隊≠フ名称で菊水隊・金剛隊の戦果や戦死者
を発表したのは、昭和二十年三月のことでした。
『光基地から大津島へ』
十一月末ごろ、二ヶ月前に島へ先行していた土浦空出身者100名のうち50名が光に転隊し、入れ替わりに
光からは、奈良空出身者のう小生を含む100名が大津島へ移ることが発表された。
大津島は、九月一日に回天隊発祥の地。菊水隊の戦果に意気も上がり、第二次出撃を控えて猛訓練中の
第一線部隊である。当時の光基地はまだ後方基地に過ぎなかったから、想像するだに身の引き締まる思い
であった。
こうして十二月一日、土空出身者48名(50名中2名が出撃予定者に指名されたため減員)が光にやってき
た。 全員が、三重空から土空を経て、二十日間ほど互いに競い合った仲でもある。
さっそく顔見知りから、大津島について情報を仕入れたが、いやもう、その凄まじいこと。話半分としても、
相 等に腹を据えてかからねば≠ニ覚悟を決め、我々100名は二日後、大発に分乗して大津島へ向かったの
で ある。この転隊の途中や以後の模様は、次の機会に書くことにする。
さて、小生は当著「その一」の「生死を分けた呉での編成」の項でこの時の機械的な編成が生死を分かつ
転機であったと言えようや≠ニ書いたが、この大津島行き100名の人選にも、何やら不可解な点が残った。
つまり、選ばれたのか、単に機械的に放り出されたのか判然としないのである。
ただしこの100名の中から一名の戦死者、殉職者も出なかったのに対し、光に残った百五十名からは戦死
者5名、殉職者2名が出ている。この事実から見る限り、ちょっと不可解な大津島行きの編成も、また生死を
分けるものであったと言えようか。
(後記)
回天選抜奇談は、この稿を以って終わります。想い起こせば「総員起こし」への個人的投稿は、昭和五十三年
度の第8号に、故大満義一君の依頼で、小生出撃時の事柄を書いて以来であります。この二月で七十九歳を
迎えた身では、次号以降も投稿が可能か否か神のみぞ知るです。脱稿に当たり会員会友の皆様のご多幸を
祈ります。
平成16年11月14日 大津島・魚雷試射場跡にて
更新日:2007/10/12