甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」 第 30号/平成14年

岡田 純

奈良空−回天振武隊(伊367)−回天多聞隊(伊367)

「回天選抜奇談 その二」

 

『呉潜水艦基地隊〜西隊からQ基地へ』

昭和十九年九月一日付で第一特別基地隊(略称一特基)付となって甲標的予定者の400名と分かれた我々

350名は、対岸の同基地西隊に入った。

ここは、潜水学校が大竹に移るまでの、呉潜水学校だった場所である。長期間出撃後の潜水艦乗員の休養

と 補給のための施設だが、少数の定員分隊の他は、それらしき兵隊は見当たらなかった。

これは、小生の後の経験からみても当然で、最低でも一ヶ月以上昼夜を分かたぬ緊張と体力消耗を強いら

れ た乗員が、ラッパに支配される基地隊での休養など真っ平御免と敬遠するのは、当然のことであったろう。

彼らには、自由の利く下宿や紅灯の館が待っていたのだから・・・。−閑話休題。

さて、基地隊には潜水艦神社があり、且つ佐久間艇長で代表される第六潜水艇が安置されていた。

これらを見聞して、誰からともなくどうやら我々の乗るのは水中兵器らしい≠ニの声が起きたが、それでも

神風特攻隊もまだ出現していない時期だったので、人間魚雷とまでは思い至らなかったのが実情だった。

基地隊に入ると同時に、奈良空から引率してきた教官、教員も帰り、我々はほうり出された格好になったが

「次 の命令があるまで骨休めしておけ」という定員分隊の兵曹長の指示で、連日特別の課業もなく、これで良

いのだろうかと思うほどの毎日であった。

でも、ただ一つ困ったことがあった。奈良空では、ワラ布団と毛布の生活だったのが、ここでは吊り床である。

何から手をつけてよいのか、皆目分からない。結局、土浦から来た連中に教えてもらうことになった。

幸い基地隊の分隊士や下士官も預かり者の我々にはほとんど不干渉。吊り床の上げ下ろしで絞られること

もなく、総員起こし十五分前頃から起き、何とか間に合わせる始末だった。だが、今から思うと短時間だった

が、海軍の伝統の一端に触れた良き経験ではあった。これ以後終戦までハンモックの生活は二度となかっ

た。

九ヶ月間、一日中追いまくられた予科練時代に比べると全く別天地のような骨休みで、兵学校や重巡「那智」

の見学も行われた。

だがこの間に、生きの良い青年士官が指導官として、ぼちぼち着任して来た。予科練時代の士官と言えば、

年 配の特務士官か予備士官上がりばかりだったので、その覇気と張り切り様には、目を見張らされた。

ところで、少々だらけた旬日が過ぎて九月十日ごろ、いよいよ任地へ赴くことになって全員大発艇に乗り、音

戸 の瀬戸ほ通ってQ基地に着いた。ここには一特基の本部があり、特殊潜航艇の訓練基地であるP基地の

向かい側にあたる大迫にあった。

Q基地はサイパンへの逆上陸を企図した海軍の水陸両用戦車部隊の訓練基地だった所。まだ少数の隊員

が訓練しているのが見られたが、作戦中止によってほとんどの隊員は他に転属しその兵舎に我々が入った

という訳だ。

それは二階建板壁のバラックで、今度は吊り床ではなく畳敷きだからやれ安心≠ニ思ったが、その晩から

猛 烈なノミの大襲撃に遭遇する羽目となった。全員ほとんど一睡も出来ず、翌日は裏山から松の小枝を切っ

てき て畳の下一面に敷いたが、あまり効果はなし。その後もノミ取粉を散布するなど、いろいろと工夫したが、

絶滅 するには至らず、十一月十二日に光基地に移動するまで唯一の悩みの種だった。

こうして基地に到着すると、既に着任していた分隊長・近江大尉(兵70期)から九三式魚雷を基にした人間

魚雷 〇六の搭乗員となることを告げられ、予期していた事とはいえ、身の引き締まる思いで覚悟を新たにし

たものであった。

分隊士兼指導官として同時に着任した三宅、橋口、中島の三少尉(兵72期)が九月十五日付で中尉に昇任

し た後、同月一日に少尉に任官したばかりの兵73期、機54期の面々が、次々と着任してきた。

下士官の教員は一人もおらずこれが終戦まで続いた。回天以外の部隊では見られない特徴の一つであった。

 

『Q基地での訓練と生活』

海も湖水もない航空隊で育った我々奈良空出身者は、まず海に慣れることから訓練が始められた。

それは、居住区の整備、訓練用の各種舟艇の受け入れが一段落した九月二十日に土空組100名が大津島

基地へ先行した頃から本格的になった。

訓練内容を列挙すると、次のようなものである。

◎カッターの撓漕 ◎内火艇の達着 ◎〇四艇の操縦 ◎白銀丸による航海実習 ◎方位角の観測判定

◎九三式魚雷の構造学習等々。

ところで、これらの訓練開始で俄然張り切りだしたのが、兵73期と機54期の少尉連中である。彼らは大正十

三 年生まれが中心で、我々奈良空出身者は大正十五年が中心。だから、我々は彼らが一号生徒のときの三

号生 徒に当たるので、彼らはまさに一号生徒の気分に戻ってしまい、猛烈に気合を入れだしたという訳である。

朝、昼、晩と鉄拳が飛ばない日はない有り様だったが、我々には彼らを憎んだり腹を立てたりという雰因気は

な かった。というのは彼らの鉄拳は修正≠ナあっても予科練教員のように制裁≠ナはなく、ましてバッター

とか 前に支え≠ニかの屈辱的な行為は一切なかったからである。

また、海軍経験者の誰もが苦しい訓練の第一に挙げるカッター訓練にしても、十ヶ月近く心身ともに鍛えられて

から始めた我々にとっては、それほど苦しいものではなかった。逆に、今にして思うと前述の吊り床も加え、こ

れ で何とか海軍の一員になれたような喜びの方が大きかった。

Q基地では、以上のように新品少尉の邪気のないシゴキに悩まされてはいたが、彼らも、これから共に回天の

訓練に入り、共に体当たりする仲間である。そうした意識も芽生えたうえ、日常生活では罰直など受けた覚えも

ないので、伸び伸びと愉快な軍隊生活を送れた。

 

『海軍二等飛行兵〜曹に任ぜられる』

このような生活が、光基地に移動するまでの約二ヶ月、続いたのである。だが、この間に、種々の訓練や体験

を 通じて海に慣れ、回天隊の隊風にも溶け込んだ。また煙草の配給も開始されるなど一人前扱いされて「実施

部 隊に所属しているんだ」という自覚が芽生えてきた。

その矢先の十一月一日、総員集合がかけられ、海軍二等飛行兵曹に任ずる旨言い渡された。軍服も着慣れ

た 七つボタンとはもうお別れ。中古ではあったが五つボタンに変わり、軍帽の徽章も右腕の階級章も抱き茗荷

に 変わった。ただ、残念ながら善行章も特技章もないズンベラボーの下士官では、外出した時に幅の利かない

こと 甚だしい、と思ったが、幸か不幸かQ基地在隊中は単独外出さがなかったので、その心配はなかった。

ともあれ予期しなかった早い任官で、我々の自負心が最高潮に達した十一月十二日、ようやく建設がほぼ終

わった光基地へ、海路移動することになったのである。

 

平成15年 4月13日 橿原神宮・甲飛十三期慰霊例祭にて

 

岡田  純

更新日:2007/10/12