甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」 第28号/平成12年

岡田 純

奈良空−回天振武隊(伊367)−回天多聞隊(伊367)

「回天選抜奇談 その一」

 

平成十年十一月大津島での慰霊祭を最後にして、二十四年間に亘る全国大会の幕を閉じた回天会は、昨年

も各地区回天会は活発に行われ、本部編集の「まるろくだより」も引き続き定期的に発刊されているが、本誌

で報告するにしては散漫になると思われるので、今後は戦中戦後の回天奇談のようなものを出来るだけ持ち

回りで紹介する事にしたいのでご諒解願いたい。

その第一弾として今回は、第一次下士官搭乗員三百五十名が回天隊に入隊したいきさつを書いてみよう。

 

『生死を分けた呉での編成』

昭和十九年八月、飛機に非ざる必殺の新兵器搭乗員を志願して選抜された土浦空100名、奈良空650名は

夫々の航空隊で九月一日卒業式を終え任地に出発した。

奈良一区の六五〇名は天理駅からの臨時列車で、不定期停車を繰り返しながらの超鈍行の夜行列車で呉駅

に着いた。これは海外行きかなと思いながら出迎えた下士官に引率され到着したのが潜水艦基地隊だった。

此処は昔の鎮守府だったとかで立派な庁舎であった。

扨、到着後一休みする隙もなく直ちに庁舎前に、分隊番号順に整列させられ号令台上の士官により、縦列の右

(11分隊)より1/3と、残り2/3のグループに分けられ、更に2/3のグループから十数名が1/3のグループ

に加えられた。

然る後「右側の者は〇六予定者、左側の者は甲標的予定者である。〇六予定者は庁舎に入り後命を待て。甲

標的予定者は直ちに桟橋の大発艇に乗り込め」と指示した。訳の解らないままの〇六予定者となった我々が舎

内に入るとそこには同じ飛長の一団が既に入っていた。訝しんで何処から来たと聞くと、土浦空の十三期後期の

100名で前夜遅くに着任したと云う。

これが各航空隊の意地をぶつけ合いながら猛訓練に励み、二十年春からは共に潜水艦で、はたまた各地突撃

隊に出撃した仲間との初会合であった(土浦空出身者は既に〇六予定者に決定していた)。

それはさておき結果として奈良空の650名は、〇六に250名、甲標的(特潜)に400名と分けられた訳だが、 そ

の分け方は誠に機械的で適性とか能力とかは一切関係ない。もっともどちらかに志願せよと言われても、 〇六も

甲標的も何のことか知らないから、言われた通りにするより仕方なかった訳である。

だが結果地として奈良空400名の特潜組は出撃による戦死者は無かったが、土浦空・奈良空350名の回天組

は出撃による戦死者34名を出すに至ったから、九月二日の機械的編成は、正に生死を分けた転機であったと

いえよう哉。

 

第一回 下士官搭乗員

出身分隊別人員

土浦空 ・・・全員偵察100名

41分隊( 9名)、42分隊(10名)、43分隊( 8名)、44分隊(10名)

57分隊( 9名)、58分隊( 9名)、59分隊( 9名)、60分隊( 9名)

61分隊( 9名)、62分隊( 9名)、63分隊( 9名)          

 

奈良空 ・・・操縦143名、偵察107名、計250名

11分隊(偵34名)、12分隊(操25名)、13分隊(操13名)、14分隊(操40名)

15分隊(操21名)、16分隊(操33名)、17分隊(偵31名)、18分隊(偵39名)

19分隊(操 5名)、20分隊(操 6名)、21分隊(偵 3名)           

 

上表を見ると土浦空の選抜は偵察出身者一本に絞りつつ、一個分隊より殆ど同数の人員を出しており明確な

選抜方針が窺われる。これに対して奈良空は操偵混合で分隊別の選抜人員は可也の差がある。

これは◎(熱望)の数をその侭出したものなのか、今となっては知る由もないが何かしらすっきりしない思いが

する。

上層部からの指示が土浦空は100名と少数であったに対し、奈良空は650名の多数であったために、選抜仕

様に難しさがあったとは思われるが、教育人材と組織ががっちり出来上がっていた航空隊と、新設で二つの

要 素が未だだった航空隊との差が出ているのではないだろうか。

以上分隊別の人員数は、当方所持の資料に基づくものであるが、誤りがあれば編集者までお知らせ願います。

 

平成14年 4月14日 橿原神宮・甲飛十三期慰霊例祭にて(右)

 

岡田  純

更新日:2007/10/12