甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

関西甲飛十三期会 公認ホームページ

 

会報「總員起こし」  第18号/平成 4年

水間 嘉典

奈良空−潜水学校柳内分校−蛟龍

「慰霊祭の思い出」

    

第一回目の慰霊祭に出席した時の記憶は遺族係になってから一そうよみがえってくる。

第一回目の慰霊祭の直会の会場は碑の前でなく別の所であった。

大きいテントの下に机がならべられていた。

一番はしの所に親しい同班のものとすわって開会を待った。

役員でもなくその他大勢の一人であった。

しばらくすると、当時、牧師をやめて檀原に住んでいた渕田さんと源田さんがテントのはずれたところで二人ならんで

写真をとっていた。

「高松宮さんと海兵同期だからきているのだろう」。

海軍航空隊の大先輩であり、世に知られるパールハーバーのシナリオライターと飛行機の指揮官であった。

海軍兵学校も陸軍士官学校も大正時代、昭和の時代は皇族方が在校していてめずらしい事ではない。

私の父も陸軍士官学校の時は皇大后様のすぐ上の兄宮様と同期であった。

渕田さんと源田さんは写真をうつすと来賓席の方に消えていった。

 

ひとりのおじいさんが私たちの席の前にすわった。

「だれかなあ」直会がはじまった。

遺族代表としてそのおじいさんがしゃべりはじめた。

その人はイ58潜より回天で発進して戦死した、金剛隊の三枝直少尉のお父さんであった。

このおじいさん、三枝 直少尉のおとうさんが、目の前でしゃべっていた話の中味を、私はここに再ろくすることは出来ない。

すでに忘却の彼方にある。

戦争で我が子を亡くした父親の姿を目の前にみた。

 

私も又父を支那の戦場で亡くしている。

支那事変がはじまると出征した。

家の入口には「出征兵士の家」の札がかかげられる。

それが「英霊の家」の札にかわっただけで父のいないのにはかわりはなかった。

そして、中学三年生の時に予科練を志願して甲飛十三期におまけか、まぐれで入隊しておわりは蚊竜の塔乗員で倉橋島より

怪我ひとつせずにかえって、さまざまな仕事をしたあとその時大阪でサラリーマンであった。 

三枝さんのおとうさんがしゃべっている間すこし他のことを考えていた。

日本の国が近代国家に生長するまでの過程であった。

帝国憲法第二十条には兵役の義務があり、兵役法はいろんなことが決められていた。

私たちは満二十才の徴兵検査を受ける前に年若かくして志願して飛行兵になり、特攻兵器の塔乗員も又志願であった。

そしていくさをやり、同期千余名が亡くなったのであった。

故三枝直少尉にも別の人生があったかも知れない。

このたたかいがなければ、そして、この父親も戦場で我が子を亡くさずにすんだのにという憶いであった。

肉親を戦場で失なうということはその一家にたいへんなことであることは私が充分知っている。

兵隊ではいろいろなことがあって、まあ怪我もなく生きてかえって、まあ出世もせずにそこそこ働らいていた私にとっては

この三枝さんのおとうさんの話は私の負い目をさらに深くした。

金剛隊が突入した二十年一月十二日は私はなにをやっていたのであらう。

奈良空で足を怪我してちんばをひいて病舎に通っていた。

特攻兵器の要員として柳井の潜水学校にいったのは四月であった。

となりは平生突撃隊で人間魚雷「回天」をまじかに見ることが出来た。

これより先は前号に記述した。

 

平成になってすでに渕田さんも源田さんもそしておそらく三枝さんのおとうさんも亡くなられたことであらう。

神様が人生のプログラムをいたづらして、ミスをしたとしか考えられない。

私の外祖父は日露戦争で負傷し、父は支那事変で亡くなり、親子三代私は大東亜戦争で戦死する。

そう予科練志願の時に決めたのにその通りにはならず生き残って、同期の皆様には迷惑をかけながら遺族係と

関西特潜艇の世話人をやっている。

これもサイコロの目のひとつかも知れない。

この原稿はほかに出すつもりでかいていたのを転進さすことに決めた。

大きい負い目が今年も又春、元気で皆さんのお世話をしようとがんばっている。

 

水間 嘉典

更新日:2007/11/03