甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第30号/平成14年

水間 嘉典

奈良空−潜水学校柳内分校−蛟龍

「特潜雑記」

    

(一)

中学三年生になって四〜五カ月が過ぎたころ、教師の保身から濡れ衣を着せられ、好い加減に捏造された桃色事件に

巻き込まれた。

三年生ではただ一人、呼び出された私は甲飛予科練の志願を条件に合格、不合格が決まるまでの間その処分が保留された。

不合格ならば退学か停学、合格すれば無罪放免という取り引きである。

三年生という低学年で甲飛に合格するのはまず難かしい、その時は留年してもう一度三年生をやればいい、と半ば諦めて

採否の通知にすべてを委ねた。

その頃、既に甲飛に志願していた級友が、この本を読めと「土浦海軍航空隊めぐり」を貸してくれた。

その本の夕食という箇所に予科練生には一日二千八百九十グラムの糧食が与えられ、カロリーは四千百キロもある

という所に釘づけされた。

こりゃあたいした栄養がとれる、驚くと同時に喰い意地も手伝って志願したのも動機に加わる。

だが、この原稿を書くに当たって平成十二年にそのメニューを再計算してみたら、なんと一日二千百十グラムと

三千七百十七キロカロリーが正しいことが分かり暗然とした。

幸か不幸か予測に反して甲飛十三期に合格した。

三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊、お蔭で中学校で保留中の懲罰はその時点で帳消しとなった。

 

(二)

飛行機乗りから「蚊龍」 の特種潜航艇乗り(以下特潜と略称)に変身して平生に転出、ここではお粗末な特潜の性能・装備等に

ついて種々研究しデータを示して提言も行ったが、どのような配慮処理がなされたかは分からない。

昭和二十年七月、特潜部隊の大浦に移動し大迫での生活に入った。

ペアが決まり艇長と水雷と電信の担当は練習艇で訓練に出るが、内火と電気担当はこれといった仕事は無い。

それでも内火は交替で大発(注=小型の上陸用舟艇)でエンジン回わしの実習に出るが、電気担当の私は全くと言ってもよいほどに

手持ち無沙汰の毎日を大浦の工場の中で過ごした。

B29の空襲激化で私達が乗る「蚊龍」はなかなか送られてこない。

高い山に登って遥か水平線の彼方を望めば、そのまた向こうに米艦船が群集して見える。

「決戦を挑むのはこの海域以外にあるまい」と実感する。

八月十五日、大迫の練兵場に全員集合した私たち特潜乗りは、いぶかりながら雑音の多い玉音放送に緊張して聴き入った。

戦争は終った、この時点で私の軍隊生活にも終止符が打たれた。呆気ない幕切れであった。

 

(三)

日本海軍の二人乗りの小型潜航嶋艇は甲標的と呼ばれ、そのルーツは艦隊決戦である。

太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入してパールハーバーを奇襲した第一次特別攻撃隊の甲標的は、

軍港内に潜入して主力艦を雷撃した。

甲標的の魚雷発射は艦上攻撃機、陸上攻撃機と同じで魚雷を発射する。

ただその違いは空中からか、海中からかの違いだけである。

 

資料の中にその戦法をまとめたものがあるので紹介しよう。

「戦闘序列の先端に位置していた千歳などの甲標的母艦三隻は、敵艦隊の展開時刻と展開方向を予測しつつその前程に進出、

相対距離約五万メートルの地点で一隻当たり十二基、合計三十六基の甲標的を発進させる。

各標的は十二基ずつ間隔三百メートルの三列の横陣(ただし第二列目の艇は第一列および第三列の艇に対して偏位する)を

形成して四ノットの速力で進撃、彼我の艦隊が砲戦距離内に達した頃、敵主力部隊付近に到達し増速して襲撃に転じる」−とある。

また甲標的は魚雷を発射したあと、彼我艦船の戦闘中は潜航して海中に潜み、敵艦が居なくなってから浮上してハッチを開き

舵輪を回わして航行に移る、味方の潜水艦が乗員を救助し終ってから艇は沈められる。

戦後、特潜の生産に従事した技術者の発表資料によると、七〜人力所のブロックに分けられて建造され、

工場内で結合したあと六十トンのグレーンで吊り上げ海上に降ろし完成する。

スクリューは魚雷と全く同じで二重反転、二つ付けられていてギヤは海中で回っていた。

なかなか生産がはかどらないこととギヤの焼付きで単スクリューに変更されたり、減速ギヤを艇内に移して一番、二番の

メインタンクを大きくして予備浮力を増やし、水上航行を有利に導いていた。

電信機は空二号を搭載、防通校出身の甲飛十四期生の電信員より私の方がトン・ツーにかけては八ヵ月も古い兵隊だ、

送受信も暗号も私の仕事としてこなしていた。

戦後間もなく、ジャイロコンパスのメーカーがジャイロ球に直接コンパスカードを付けた商品を市場に出したが、

昭和十年代のコンパスカードはジャイロ球とは別のモーターで動かしていたものだ。

名古屋で開催された特潜会にパールハーバーで九軍神と同時出撃し、防潜網に阻まれて米軍の捕虜となり終戦を迎えたと

聞き及んでいた酒巻少尉が出席されていたので「艇のジャイロコンパスが故障していたのかどうか」と尋ねてみたが

明確な答えは得られなかった。

酒巻さんはその後、平成十一年十一月に亡くなられたので永久の謎となってしまった。

 

倉橋島の特潜顕彰祭で、次世代を担う気鋭の中村武彦氏が私たちの部隊を賛えて特別攻撃隊賛歌を作詩し、

海上自衛隊呉音楽隊が作曲した賛歌を献奏してくれた。

この日の感激は一生消えることは無い。

長い歌詩なので一番と六番だけを紹介して特潜雑記の終わりとしたい。

 

特別攻撃隊賛歌(特殊潜航艇)

中村武彦 作詞

海上自衛隊呉音楽隊 作曲

 

一、わだつみの八潮路遠く 波の底雄叫びきこゆ つはものは蘇り来て

. 見よ今もその高鳴りは 紺碧の空天翔る ああ特別攻撃隊

 

六、歳月は流れゆけども 忠魂は生きて在ります 鬼神も芙きて費えん

. まごころとその勲しを おうがめば血潮燃え立つ ああ特別攻撃隊

 

水間 嘉典

更新日:2007/10/12