甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会
関西甲飛十三期会 公認ホームページ
会報「總員起こし」 第28号/平成12年
水間 嘉典
奈良空−潜水学校柳内分校−蛟龍
「特潜私記」
(一)
大東亜戦争が始まった昭和十六年十二月八日は、私は中学校の一年生であった。
日がたつにつれてあれよ、あれよと戦争は大きくなっていった。
昭和十七年の正月から桜の散るころまでには陸軍と海軍はアメリカ、イギリス、中国、オランダの包囲陣を打ち破っていた。
一方海軍は開戦と同時に空母によってオアフ島を空襲していた。
この戦果は追々海軍より発表されその中に、
一、省略
二、同海戦に於て特殊潜航艇を以って編成せる特別攻撃隊は、警戒厳重たる真珠湾内に決死突入し、味方航空部隊の
. 猛攻と同時に敵主力を強襲、或いは単独夜襲を決行し、少なくとも、前記アリゾナ型を轟沈せしめたるほか
. 大なる戦果を挙げ敵艦隊を震駿せり。
三、味方損害、飛行機二十九機未だ帰遷せざる特殊潜航艇五隻。
このあと昭和十七年三月六日には特別攻撃隊のかなり詳しい発表があった。
消去法でたどりついたところはパールハーバーに潜入したのは二人乗りの小型潜航艇である。
パールハーバーまで行く方法はマーシャル群島より潜水艦に曳航されて湾口まで行ってパールハーバーに突入する。
夜は浮上して潜水艦と同じヂーゼルエンジンで、昼は潜航して水中はモーターで走り迷子にならないように曳索でひっぼってもらった。
普通の潜水艦の小型であるのが軍国少年のたどりついた結論である。
(二)
日本軍が勝った、勝ったとさわぐ仲間とは、はずれて小型潜水艦のデザインをする事を決める。
二人乗りにして一人は士官でもう一人は下士官である。
戦車、トラックは運転手一人である。
単発の飛行機も操縦員は一人である。
この潜航艇もひとりで操縦する。
後に士官が立って潜水艦の艦長の役目で、潜望鏡をのぞいて号令をかける。
艇の大きさを考えた。日本海軍が明治時代の一号艇や六号艇はすでに廃艦になって、内容は公表されていた。
これの内部の機械を近代化して二人乗りにしょう。
ここで鋼材、エンジン、モーター、電池を明治三十八年より昭和十五年までの進歩をそのまま艇内にいれる。
長さも幅も小さい六号艇でまとめることにした。
前より発射管、電池、操縦室、ヂーゼルエンジン、モーター、スクリュー、と潜水艦の小型になる。
六号艇を水中抵抗がすくないようにデザインをやりなおした。
もうひとつ、潜水艦のほかに水中を直進するものに魚雷があった。
これから出発して小型潜水艦になる。
(三)
重量・強度・構造設計・航走性能・水上、水中の性能、など潜航艇の基本的な事は中学校二年生の学力では出来ない。
棚上げして後のことを一つ一つデザインしていた。
一号艇や六号艇は発射管一門で後方に魚雷を装填するようになっていた。
発射管を縦に重ねて二門にして、前装式で発射の時は圧縮空気で押し出す。
前のふたは魚雷が進むとはずれる。
電池の上に置いた魚雷がなくなるので、天井まで電池を積む。
電池はプレートを薄くして容量を増やして寿命を短くする。
操縦室は潜水艦の発令所である。
教師の目を盗み、親の目を盗み、勉強しているように見せかけてノートを作り、納屋の板間に現寸を書いて図面を作った。
本を買ってもらえないのでヂーゼルエンジンの本を本屋をはしごして読んだ。
操縦室の計器盤は飛行機と同じでジャイロコンパスをつけた。
潜水艦の舵輪は二つある、これをダクラスの旅客機の操縦席と同じものをそのまま着ける。
飛行機のオートパイロットをそのまま採用する。
水中速力は十六ノットで、水上は八ノットである。
いくさの時は全部手動にする。
ジャンビングワイヤは無線のアンテナにして士官の艇長が爆撃機と同じ送受信機を使う。
ヂーゼルエンジンの起動は自動車と同じでキイを入れてセルボタンを押して起動してフットバーをふんで艇は発進する。
ここまでは図書館で魚雷の本と潜水艦の本をまる写してノートをつくった。
動力系のちがう三つの潜航艇は次のような事でまとめた。いくさは発進してから帰ってくるまで二日にしよう。
いくらオートパイロットでも乗員の体力はこのくらいだろう。
敵艦を発見した時は普通の潜水艦と同じいくさをする。
生活要素は風呂はなくして、座席はリクライニングシートで便所はモーター室に設けた。
食料は全部缶詰で電熱器でボイルして食べる。
昔の六号艇のように母艦よりお弁当を持っていっても良い。
サイダーもカルピスも持って、真水タンクはないので一升ビンをかわりに持っていく。
昭和十八年六月、学校がでっちげた桃色事件に連座する。
皇国中等学校教育のおちこぼれとして、これ以上学校に置いてくれなかった。
ここで甲飛志願によって合格通知がくるまで首がつながる。
これを過ぎるといくら勉強しても次の年に同じ学年をやるように言われる。
おもてむきは国難にさいして忠君愛国の気持ちで志願した筋道が決められていた。
日本国民の男子である以上、兵役法によって兵役の義務があって必ず兵隊に行く。
ここで一足早く甲飛に行けば彼等が二十才になって新兵の時は下士官になって大きい顔してなぐれる。
兵学校に入校して飛行学生を出て実施部隊に来る時は、飛行時間三千時間の搭乗員になる。
そこまで生きている保障はない。
中学校より人見御供で海軍に売り渡される。
航空戦に参加すれば靖国の森に直行であった。
志願した時はマーシャル群島の東のはるか向こう側とソロモンの南の方でいくさをしていた。
日本は局地戦ですこしづつ負けていても、そうガタガタと負けないだろう。
中学三年生では合格しないだろう、そう、たかをくくつて志願書を出した。
合格通知が来て飛行兵になる。
奈良に入隊で甲飛十三期生である。空を飛ぶ飛行兵になる、
よもや海を潜る事は無いだろう。
一年半かけて作ったノートもデザインした図面は風呂釜の中にまとめて焼いてしまった。
淡い煙が晩秋の夕ぐれの空に上がっていった。
(四)
入隊は天理教の奈良空である、ここの生活は同期生の諸兄と同じで詳しくは述べない。
十兵舎、八兵舎、一兵舎と転々とした。
私の分隊から特攻兵器要員は出ていったが、どんな理由があったのか飛行練習生には行けなかった。
私の分隊は昭和二十年の紀元節には練兵場の号令台の一番前に先任分隊として並んだ。
十三期生は全部出て、偵察分隊一ケ分隊が残っていた。
しかし三月の終わりに特攻兵器要員として長かった奈良空を去った。
四月より潜水学校柳井分校で、五人乗りの蛟龍丁型の電機員としての講習が始まる。
世界中の戦争にまきこまれ、運命にもてあそばれて、飛行機乗りを希望して志願したのに特潜乗りになって海を潜る。
乗る艇は二人乗りの甲型より改良されて、五人乗りで発電機をのせたものであった。
発電機を内火員と一緒にまわして、電池を充電する役目で、海軍の特殊潜航艇は私のデザインした艇とまったく同じであった。
三つのデザインの延長で大きい方の艇であった。
後部電池室の前の発電機室で、私のデザインは六十馬力のバスのヂーゼルエンジン二台積んだが、
海軍はニイガタの一五〇馬力のヂーゼルエンジンで一台積んでいた。
いろいろメカに関する私の誤解は教官、教員が教えてくれた。
蛟龍丁型は私の手のひらのうちにあった。
平生には四月から六月の末まで三ケ月居た。
兵舎のとなりは回天の兵舎であった。
潜水艦が回天を積んで出撃する。
浜に並んで帽を振って見送った。
回天の搭乗員は十三期の同期生であった。
蛟龍丁型はこの文では詳しく書かないことにして次にゆこう。
昭和二十年七月に倉橋島の大浦嵐部隊に行く。
ここで艇長とペアが決められる。
艇長と水層と電信が安芸灘で操縦の訓練に出ている間は、内火と電機は別に仕事は何もないのでごろごろしていた。
八月十五日に戦争はおわった。
更新日:2007/10/12