甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第17号/平成 3年

水間 嘉典

奈良空−潜水学校柳内分校−蛟龍

「柳井潜水学校分校に着任してから」

    

昭和二十年四月、私は大竹潜水学校柳井分校に特殊潜航艇「蚊竜」の講習員として着任した。

兵舎のすぐ隣りに板塀一つで平生の回天基地がある。

毎晩酒を呑み放歌高吟が聞えて来た。

彼等は一階級上の一飛曹であった。

四十五分隊での顔見知りが何人かいたが髪を伸し異様な姿であった。

初夏の或日潜水艦に積まれ軍艦旗を振りながら出撃していった鉢巻姿を帽振れで見送った事を思い出す。

初めての吊床にとまどい本格的な甲板掃除に悲鳴をあげた事も懐かしい。

吊床と云へば私にはとんでもない思い出がある。

居住区が一階で二階からすき間を通してほこりが落ちてくる、それを吸込むのが原因か蓄膿症になってしまい

入室を云ひ渡されてしまったが一向に良くならず、呉病に送院となり看護兵と軍需部行の機帆船に乗船、

船旅としゃれこんだが柱島北側で空襲警報甲板に出て見張りに立つ「B29」が飛んで来て前方に機雷を落下傘投下。

不気味ながら奇麗をものだと見とれている内に前を行く機帆船が触雷。

ものすごい水柱と大音響、瞬時にして船影は消えていた。

我にかえり若しこの船が前を行って居ればと、ぞーっとしたが無事呉についた。

一週間空気の良い所で暮したお蔭げで完冶、潜分校に帰任七月には大浦に転勤、黒い「蚊竜」が波問に浮び、

いよいよ死に一歩近づいたの感を強くした。

 

思いつくがままに

四年程前にはその他大勢で皆の後ろの方で式典(注:甲飛十三期殉國之碑慰霊例祭)を傍観していたが

毎回出席だけはしていた。

弁当を貰うとすぐ若草山や東大寺あたりに遊びに行き付き合も悪い方である。

それが遺族係のチーフが特潜会員と云ふ事も一因して、小生もいつの間にか遺族係になってしまった。

遠方より出て来られた年老いた遺族の方々のお喜びになる姿を見ていると多忙な仕事ではあるが身につまされ、

やらねばと毎回頑張っている。

かく云ふ小生も父親が陸軍将校で、昭和十五年中国で戦死したれっきとした遺族で父と子の違いはあれ、

お気持の一端はわかる様な気がする。

これからも非力ながら協力をさせて頂く所存である。

 

思えば私も長生きをしたものだ。

四十五年と云ふオマケの人生を大した病気もせず過して来た。

六十才で職場を停年で退職してからはとみに死んだ戦友のことを思い出す。

奈良の一学年で隣りの班に居た市川正吉兵曹は第二十二震洋隊に所属、沖縄で戦死。

二学年で一緒であった豊永裕信兵曹と東 輝慶兵曹は第二〇震洋隊で共に天草でグラマンの空襲を受け戦死している。

中でも胸の痛むのは、訓練中の沈没事故で亡くなった久山昭正兵曹の事である。

どの様ないきさつがあったのかは、はっきりしないが私の替りに乗艇しての事故だけに気の毒さはこの上無し。

慰霊祭にご出席の遺族の方々が参集している我々を見て息子も生きていれば、あの輪の中にはいって愉快にわいわい

やっているのにと思って居られると思うと胸がしめつけられる様だ。

すこしでも喜こんで項だける様これからも頑張って行きたい。

殉国之碑に鎮まる千余柱の英霊の御霊の御冥福を心からお祈りし、遺族の方々のご健康とご多幸を合わせてお祈り致します。

 

水間 嘉典

更新日:2007/10/14