甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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「若櫻友苑」総集編/平成 2年

久保 吉輝

奈良空−回天 (光)−轟隊(伊363)−回天多聞隊(伊363)

「 弁当屋雑感 のらくろ昔噺」

 

大阪は東北より田舎…?

勇んで入隊した三重空奈良分遣隊は、何んと畳に雨戸と紙障子の天理さんの詰所(宿舎)、特に第四兵舎十六分隊は、

どの分隊よりもお粗末そのもの、透き間風が身に滲みる。隣の兵舎へ行くにも町の中を通るのだから、

娑婆ッ気充分で三カ月過ぎた頃の話。

通信講堂での授業も終り、週番の小生、班員に「受信器をアンジョウしとけ」とどなって、ハッとした。

直ぐ通信教員は「オイ!!、アンジョウとは、何ンツー事だ」

「ハイ、安定であります」とこじつけると、「地方の言葉を使ってはナンネェー」ときた。

ついうっかりと「大阪は、第十六代仁徳天皇以来度々都が置かれ、現在も三府(当時は東京も府であった)の内の一つで、

地方ではありません」 

しまった、教員の顔色がサッと変った。

後は訳の解らんズーズー弁を喋りながらビンタが跳んで来た。

どうも一番気にしている処をつついてしまったらしい。

叩かれ乍ら「何んで大阪がエゾより田舎やねん」と考えている間に、寸劇は終っていた。

どうも、海軍さんは、大阪もんはドテンプラといって、何処へ行っても毛嫌いするようだ。

 

撲られた生神様

それから丁度一年後の二十年三月、処は山口県光市の回天特攻基地、大阪出身の先任将校に「大阪もんの名誉の為に・・・・・・」と

いわれて、五月に出撃を命ぜられ、連日搭乗訓練で大奮斗のある日。

今日も訓練終って「異常なし」と報告するや、辛抱していた便所に小走りに飛び込み、充満したタンクを放水する快感と

事故もなかった安堵感に浸り乍ら、窓越しに眼をやると、一種軍装に縄(参謀肩章)をぶら下げたおエラさんと視線が合った。

短銃をつまんだまま敬礼も捧げ筒もできない。

「そこの兵、何しとる」、放水もそこそこで、事の顛末を説明するも、聞き入れず、即敬礼しなかったと一発ビンタをくれて

調整場の方へ行った。

何が参謀だい!!出来立ての少尉や中尉ならいざ知らず、檀那同然の者が手を下すとは、不見識な奴め、

大阪の商家なら丁稚を叩くのは、手代か小番頭と相場が決ってる。

もう二ヵ月も経ったら軍神となる予定だ。生き神様を小便位の事で撲るとは、見下げはてたる哀れな奴や、

と思うと案外腹も立たなかった。

 

戦後海軍の会合で本人とも会ったが、そんな事はサッパリ忘れているらしい。

それもその筈で、百数十名の出撃搭乗員の選抜には、他の高級将校と共にこの男も噛んでいたと思われる。

小生は、二度も死にそこなっている内に、後から出撃したのに同期の佐野 元、上西徳英、林 義明、中井 昭、小森一之君ら

五名の奈良空出身者が敗戦の日を目前にして散華された。

残念至極、嶋呼、合掌。

 

「不運」と「非情」

前二編では、撲られてばかりで面目ない話である。

非人間的な者の多い海軍にも格段と人間臭い人の話をして本項を終りたいと思う。

前項より二カ月後、海軍記念日の翌日、上山中尉、和田少尉と上空の石橋、小林(西沢)に小生の五名のペアーで、

伊三六三潜水艦と共に轟隊として出撃。四日には予定の沖縄−サイパンの米軍補給路に到着、

早速五十隻位の輸送船団と遭遇、「回天戦用意」 の号令で白鉢巻をしめ、襲撃命令を受け、小生の五号艇発進係

(潜水艦と艇を固縛しているバンドをはずすハンドルを回す係、見方によれば十三階段の縄を引っ張る役)の塚田主計兵曹より

末後の水のかわりに渡された、良く冷えたサイダーを飲み乗艇、敵速、方位角、敵針等データーを電話で艦長より受け、

発動桿を力一杯押すと、快調に機関は回転している、「発進」の号令を今や遅しと待っているが、命令がない、

「まだかまだか」と催促したが、「作戦中止、搭乗員は艦内にもどれ」との事で、交通筒から下りた時、

塚田兵曹は「よかったなあ」といった。

「何がよいことあるか」と思ったが、「今度又、行かしてもらいます。またサイダーをたのみます」といったが、

彼は「二度とサイダーなんかやるもんか」といった。

彼と私は、その時全く相反する事を考え、言っていたのだった。

 

戦後、塚田氏に会った時、その時の話をしみじみしてくれた。

あのハンドルは何んとしても廻したくなかった。

この手で人一人の命を奪うと思ったら、如何に命令とはいえ、廻さずに済せたい。と言っていた。

その思いは艦長自身も同様だと艦長夫人よりも聞いた。

あの六月四日には回天を発進させて戦果を挙げるか否か、状況判断が微妙な点があったのではなかろうか、

又、人の命を断つという事に対し、心の大きな動揺があったのではなかろうか。

今はそれを聞くべくもない。

尚その日に、一カ月前、休暇で最期の別れとなった祖母が亡くなった日でもある。

あの世に行こうとしていた私に身変りとなってくれたものと思っている。

 

十日後の夜、再び米軍輸送船団と遭遇した。

艦長に今度こそ発進させてくれと申し入れたが、

「夜間の事でもあり、貨物船位に君達を死なせたくない。もっと大目標がきた時にたのむ。」と言って通常魚雷を発射した。

幸か不幸か、倍ほど距離が計算上違うのに命中、バンザイの声が上った。

しかし、お返しが大変で、三日二晩、敵機敵艦の爆雷攻撃で命の縮む思いをさせられたが、

遂に帰投命令で六月末日、光に無事(?)帰港した。

後日、艦長は夫人に「誰れも殺さずにすんだ」と語ったとの事であった。

一方、回天基地では、吾々を見る眼がどうも白い、空気がおかしい。

「一度死ぬと決めた者が、生きてたらややこしい」というような声も、気のせいかしてくる。

半月ほど追加訓練をして(最終訓練日に副隊長の和田少尉が事故で行方不明、戦後遺体発見さる)再び広島ピカドンの翌日、

多聞隊として沖縄へ出撃、ソ連参戦で今度はウラジオ襲撃に変更、五島沖で米機の銃撃を受け急速潜航、

通常深度の四、五十メートルになっても止まらない。

ドンドン落ちて行く。深度計の針は振り切ってしまった。

艦の耐圧深度をオーバーしている。

水圧で破壊する不安でいっせいに頭を両手で被った。

「ドスーン」着底(海底についた)した。バルブやパイプの継目から浸水してくる。

大傾斜した艦首からいろんな物が艦尾にころげ落ちる。電灯が点滅する。

「もう、アカン」と覚悟を決めたが、総員必死の修理作業の結果、五時間後にやっと自力浮上することができた。

正に地獄からの脱出だった。

甲板に出て見て、腰を抜かす処だった。

小生の艇の頭部炸薬の信管十五糎の処に被弾、黄色い火薬が散乱している。

十五日朝、佐世保入港、修理せんとするも、敗戦の報を聞き、修理未完の為にヤケクソの出航も出来ず、

又々、死に神に見放されて二十日過ぎ光に帰投、焼土と化した大阪へ。

なにもかも灰になったわが家を呆然と見つめることになった。

 

皮肉にも、吾々を神様のようにして大事にしてくれた伊号三六三潜水艦は、呉より米軍の命令で佐世保に回航の途中、

暴風雨の為機雷に触雷沈没。水雷科等攻撃部門以外の乗組員は、一旦復員しながら、呼び戻されこの難に会い、

一名を残し艦長以下四十数名が戦後戦死という惨事になってしまった。

死にたくても死なしてくれず、死なずに済む者まで死んでしまった。

運命とは実に非情であると言わざるを得ない。

合掌

 

まだ裏話もありますが、紙面の都合上この辺で、拙文汗顔。

 

  

 

  

「甲飛十三期殉國之碑慰霊例祭」 のらくろ<Gプロン姿の久保主計長

 

久保 吉輝

更新日:2007/10/13