甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第32号/平成16年

久保 吉輝

奈良空−回天 (光)−轟隊(伊363)−回天多聞隊(伊363)

「 天地の恵みは広大無辺A 嗚呼、落日の呉軍港」

 

二十年六月二十四日艦長の粋な計らいで梅雨のそぼ降る宿毛湾に仮泊、一ヶ月ぶりの太陽に目がチカチカした。

牛缶と魚や野菜と交換し、全員無意識のうちに生のまま口にしていた。

翌々日イ三六三潜は搭乗員への心遣いか、三月に開隊した平生基地に入港し、久しぶりに大地を踏み、広い浴場で

一月分の汗と垢を流し、「俺はまだ生きている」と空しいような、ホツとした思いがこみ上げてきた。

翌朝五基の回天を陸揚した艦は出航、島蔭に停泊している病院船氷川丸を見ながら航海し呉の湾口に到着、

見渡すと中央に停泊している榛名、日向の他は艦影を見ず、広々としている。

昨年九月にここに着任したときには、比島作戦に集結した大和、武蔵以下艦船群で港外まで満杯で、頼もしい限りであったのに、

半年あまりのこの変わりようは、そんな思いを巡らせていると、甲板で眼鏡を覗いている数人がワイワイいっている。

岸壁にハンカチを振っている女が、どうやら馴染み女の出迎えである。

「如何して知っているの」と山四本の先任機関上曹に聞くと「野暮は云わない、ジャの道は蛇」とのことであった。

工廠南端の潜水艦桟橋(現在も海自が使用している)にイ三六六潜の隣に着岸した。

早速点検修理が始まったが、死ねなかった搭乗員はトント暇で、ただ食って寝ているだけであるが、夕方になると乗組員は

皆ソワソワしてくる。

待ちにまった半舷入湯上陸である。

艦長、航海長と隊長などエライサンは、六艦隊司令部の作戦報告、研究会や工廠に修理の打ち合せ等お出かけであるが、

我々はトント暇で、艦橋からの突入訓練を乗組員と一緒に数回、これは浮上航海中に艦橋で対空見張りの五人が

急速潜航に遅れぬよう、ハッチに飛び込み垂直のラッタルを滑り降りる訓練で、耐水双眼鏡の接眼部の耐圧蓋を締めて

打ち合わせをした順番に一人一秒で飛び込む。

当直士官は「遅い遅い」と急き立てる、

下手をすると脛をハッチで打って目から火が出たり、次の者が頭の上に落ちて来る。艦と自分の命にかかわる訓練である。

 

入港して間もなく俸給を貰ったら、封筒に十円札がずっしり入っている。

明細を見ると、俺の月給は本給の他に航海手当、危険手当等、手当が色々ついて、なんと百七十円にもなっている。

しかも三か月分もある。

なんと次の航海に出て帰ってくるまでの分の先貰いとのことで、先任下士に聞くと

「先に貰っとかないと沈したら貰いに行けんからな」であった。

大部分を家に送金したが、まだ当分十三丁目に行ける分は残っていた。

 

数日後、下士官搭乗員の三人組が出撃の時貰った血書の手紙や日の丸(現在も靖国神社の遊就館に展示されている)の

呉高女挺身隊の女学生に会いに呉工廠の光学部へ缶詰や菓子等を持って訪ねた。

回天の特眼鏡を組み立てていた彼女たち数十人の熱い視線に圧倒され、緊張した三人は何を話し何を聞いたのか、

トント現在は記憶がない。

寄宿舎の住所を聞き改めて訪問することを約して退散した。

翌日夕刻、副隊長の和田少尉に持ち出してもらった土産持参で宿舎を訪ねた。

暗幕の掛かった薄暗い部屋だが、彼女達の明るい話や歌声で、賑やかな甘い雰囲気の中で、ウブな三人は何とも言えない

中学生になっていた。

別れ際に彼女達から毛糸で作った小さい藁人形を沢山もらった。

身代わりに連れて行ってくれとのことであった。

十数個搭乗服にぶら下げていたが、誰かに取られて二、三個になってしまった。

 

生きて二度と会えないと思っていた彼女たちと二十年後に再会する事になった。

昭和四十二年四月に突然朝日放送テレビの記者が訪れ、某製薬会社の提供で「日の丸と‥・」と言うご対面公開番組への

出演依頼で、東京の石橋、長野の西澤君も出演を承諾しているとのことで、戦後初めて会えるのを楽しみに、

家内と放送予定時間の半日も前に出向いた。

当時は白黒のブッツケ本番で、何回もリハーサルや打ち合わせで、少々疲れてしまった。

彼女たちとは本番まで合わせないとプロデューサーは言う。

やっと午後八時に三国連太郎の司会で始まった。

アーも言おうコーも言おうと思っていたが、上って何も言えない。

可憐な女学生ならぬ、おばはんが出てきた。

後で聞くと、教師、主婦、バーのママさんである。

相手も美少年ならぬ中年男でさぞ、ガツカリしたことであろう。

放送終了後、別室で懇談したが、あの二十年前の強烈なイメジーと噛み合わず、何か割り切れぬまま、

会わない昔のままが良かったように思えた。

「瞼の母」 の心境は正にこんなものであろう。

彼女たちを引率してきた毛利勝郎氏に三人とも出演料一万円全額を大津島の回天記念館建設資金として寄付した。

これが機縁で戦後の三人の交流が始まった。

 

話が脱線してしまった、昭和十九年九月に戻そう。

呉に着任して間もなく境川桟橋で偶然にも、奈良空入隊時の二十六分隊(操偵改編で十六分隊)七班班長の青山一菅に

バッタリ出会った。

陸戦隊姿の赤ら顔のちょび髭ですぐ分かった。

「どこに行かれるんですか」と聞いたら「聞かされてないが、どうもフィリッピンらしい」とのことで、

「班長、変わった銃でんな、新式でっか」と聞くと「何にいってんねん、猟銃や」と自嘲していた。

「君はこの呉で、どうしてるんや、さぞやゼロ戦にでも乗ってるのか」と問われたが

「一日に奈良空を繰上げ卒業してここに来ましたが、何に乗るのか分かりませんが、飛行機ではなさそうです」と答えたら、

「そうか、お互い苦労するな」といいながら別れたのが、今生の別れとなってしまった。

この青山班長は徴兵の下士官で、入湯外出の時は生駒山の西の大阪府石切町の実家か、同班のN練習生の奈良県生駒町の

芸者の置屋に通っていたようで、随分楽しくやっていたようだったのに、七月頃転勤したのが陸戦隊だったのだ。

 

十一月一日に二等下士任官、三日の明治節には大和を建造した四ドックで竣工したばかりの空母葛城を見学した。

そこでまたも、十六分隊士の宇都宮兵曹長と再会、機銃群の指揮をしている様だった。

その後、上陸が許され呉の町に出たが、海軍の兵隊だらけで敬礼の連続で、ボタモチの悲哀をかみ締めて呉駅に走った。

兼ねて内緒で出した手紙の通り両親との再会が成功、記念写真を撮り、港の見える旅館で四方山の話をしながら、

港内を埋めた艦隊群を見て「こんなに聯合艦隊がいるんだから、まだ負けへんで」と言ったが、

一月も経たないうちに、比島で大方やられてしまった。

その葛城も、活躍の場を与えられぬまま、六月に入港した時は樹木で偽装して、島影に退避していた。

 

その後、半舷どころか殆ど毎夜のように上陸して、映画も芝居も行き尽くした

数日後の夜半、宿泊中の旅館で夜半に空襲警報、早速衣服を着て段々近ずく爆弾の破裂音を聞きながら、

押入れの布団を十数枚被り通り過ぎるのを待ち、バリバリと着弾した音と共に外に飛び出そうとすると、

逃げ遅れた女中が腰を抜かしている。

同宿の三人で担ついで猛火の中を岸壁の方に走った。

途中の防空壕に女中を放り込み、海に向かって走る。

衛門にたどり着くと、鎮守府も海兵団も軍需部も炎上している。

集会所に焼夷弾が落ちた、艦の兵隊十数名と俺らの集会所だと必死に消した。

近くの水交社の士官が消火の応援を言ってきたが「テメエのとこはテメエで消せ」と、言ってやった。

夜が明けたら、消火に協力した集会所だけが焼け残った(現在も海自が使用しているようだ)。

イ三六三潜は港外で沈座していて無事だった、艦の乗組員は全員無事であった。

数日後、搭乗員、整備員に帰隊命令が出た。足取りも重く、死ねなかった我々は汽車で光基地に隠れるようにして帰隊したのである。 

(この項完)

 

(付記)

「怨敵撃滅」を誓い合い、連日の猛訓練を耐え抜き、二十年五月に回天特別攻撃隊轟隊の下士官搭乗員として、

八月には多聞隊として再度イ三六三潜水艦で出撃した盟友の石橋輝好君を一昨年一月に、

西澤重幸君を昨年二月に相次いで失った。合掌

 

  

         回天光基地                    昭和四十二年四月  嗚呼戦友、嗚呼軍歌

 久保吉輝    石橋輝好    西澤重幸          呉高女挺身隊の女学生と二十数年ぶりの対面

 

久保 吉輝

更新日:2007/10/13