甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第24号/平成 8年

久保 吉輝

奈良空−回天 (光)−轟隊(伊363)−回天多聞隊(伊363)

「 人間魚雷は独・伊・英にもあった」

 

英BBC放送TVに出演して

平成五年晩秋、突然東京のBBC放送の支社より電話があり、五十年前の回天に関することで取材したいとの依頼があった。

大阪の小生よりも東京には多数の回天関係者が居るのに、その経緯を聞くと、東京在住の小生と出撃ペアーであった

土空出身の石橋輝好君に見せてもらった平成二年の橿原神宮御鎮座百年祭協賛、若桜友苑整備事業竣工記念の

第十七回大祭に刊行された「若桜友苑・総集編」に寄稿した小生の一文が非常に興味があるとの事であった。

数日後、通訳の佐久間黎子と演出家のアニタ・ローニスタインの女性二人が来宅、写真や参考品を示し乍ら

延々五時間に及ぶ取材であった。

 

彼女らが一番疑問に思い、何度も質問してきたのは、

@死ぬと決った兵器に乗った動機とその背景、

A発進直前に至るまでの心理状態、

B発進中止を命じた艦長木原 栄中佐、発進係の塚田利太郎一主曹及び小生の心情と経緯、

など同誌三十四頁に所載の記事についてであった。

 

何分、文化・思想・生死観の違う者が通訳を挟んでの問答であり、話は行きつ戻りつ中々真意が理解してもらえない場面が

随所にあった。

十数日後、数回の確認と補足の電話打合せがあって、アニタ記者は本社と打合せのため帰国、]マスカードの交換で

年が新まった。

翌六年三月テレビ対談の出演依頼で上京、半蔵門の文化放送及び靖国神社の回天(ハワイの博物館より返還され、石橋君、

小生と共に出撃ペアーであった土空出身長野県在住の西沢(小林)重幸君が補修した現存する唯一の回天一型の実物)に

五十年振りに搭乗してビデオ振りをした。

座席に座り上部ハッチを塚田兵曹が閉鎖すると、往時の事どもが一挙に脳裏に去来し、萬感胸に迫り思わず頬を濡らす涙を

止めるすべがなかった。

翌七年十月ビデオテープがロンドンより送られて来た。

そのビデオに添付されたカードにはNAUTILUS〃シリーズ第一編「鉄の棺桶の戦争」 となっていた。

本国では一九九六年九月二十一日放送の五十分物であった。

前半は英海軍の二人乗り人間魚雷の元指揮官、搭乗員が当時の写真や訓練風景を混えた回想談であった。

また英国より早く一九四二年に同種の兵器を開発したイタリヤ海軍は、ジブラルタル、アレキサンドリヤ、マルタの英艦を

襲撃した様で、英海軍も同種兵器で伊軍港を攻撃した写真が出ていた。

当然の事乍ら英語の説明であり、後半の小生ら日本人出演者の談話もすべて吹き換えてあるので、語学力の無さを

つくづく後悔している次第であります。

 

回天と独・伊・英艇との相違点

ともあれ、英伊独国の兵器は性能上、大型艦に決声的打撃を与えられる程の威力はない様で搭乗員も潜水具を付けて

兵器に馬乗りになって航行する仕組みで、限られた狭い範囲の平水面でのみで、外洋では航行不能であり、

湖のような地中海が精々であったであろう。

その運用は、敵湾港内の碇泊艦に接近し、頭部の炸薬を分離し艦底に装着、時限爆発装置をセットして、

頭部のない艇にまたがり現場より離脱すると云う方法である。

昔映画で丸太にすがりついたターザンがジャングルの川を下って悪漢に接近して、やっつけたシーンを思い出した。

また湾口に張られた防潜網をノレンの様に手で持ち上げて進入する訓練シーンも映っていた。

誠にマンガ的な戦法であるが、少くとも成功例があるとすれば、大戦頭初の電探(レーダー)、水中聴音機 (ソナー) もなく、

探照灯の不備、駆潜艇等の水上警戒艦艇が居らず、見張りも不充分な、まったく無警戒な湾港内でしか成果は期し難い。

しかし笑ってもいられない、敗戦直前にシンガポール在泊の重巡高雄が英軍艇に艦底を破壊された例もある。

これこそ油断の結末と云わざるを得ない。

 

翻えって回天の場合はどうであったのであろうか。

昭和十九年秋以降彼我の形勢は如何か。制空、制海権は全く米軍に握られた

絶望的状況であり、前記の様なマンガ的要素は微塵もなかった。

それでも第一次の菊水隊はカロリン群島ウルシー泊地とパラオ島コッソル水道泊地を、第二次の金剛隊は先の二ヶ所に加え

ニューギニヤのホーランディヤ、同島北方のアドミラリティ島、グアム島アプラ港の在泊艦を攻撃し三十六人の回天勇士が散華した。

以後は米軍の哨戒態勢が厳重になり、泊地攻撃の強行は母艦である潜水艦の被害を増大し、遂に洋上での航行艦を襲撃する

戦法に変更された。

時恰も沖縄に米軍が来襲した、これを支援する輸送船団を太平洋のド真申で攻撃する事になった。

 

この戦法による航行艦襲撃は、碇泊艦襲撃に比べ文字通り固定目標より移動目標への変更であり、通常潜水艦長が

数人のスタッフと協同で行う敵針・敵速・方位角・距離等を適確に観測し、命中に要する諸元を計算の上、自艇の進路・速度を

割り出し攻撃態勢に移らなければならないし、これに時間を費せば折角のデータの精度が悪くなる。

しかもこの作業は、五つのゲージに注意して十数個のバルブを開閉し変化するツリムを補正しながら艇を操縦しつつ

やらねばならない。

またより正確を期すため、浮上し観測の回数や時間を多くすれば、敵に発見される危険度が増加する。

通常観測時問は三十秒以内である。

兎に角、たった一人で全てを遂行しなければならない、正に神経をすり減らす作業であった。

その為か訓練中の事故は増加する、安全装置はほとんどない代物で、事故は即死につながる。

衝突の衝撃で特眼鏡(小型潜望鏡)で頭部が割れ操縦席が血の海となった惨状を見るに至っては、一分のスキも誤認も

許されない緊張の連続であった。

この様な苛酷な猛訓練の成果が、これ迄の世界の常識を逆転させることになった。

即ち、潜水艦は水中より魚雷を発射して敵艦船を攻撃出来るその穏密性が何よりもの最大の武器である事は何人も

否定出来ません。

しかし、攻撃後は自らの存在を暴露し、以後は駆逐艦等の水上艦艇及び航空機による爆雷や爆弾の洗礼を受け、

それに対し何ら反撃の手段もなく、一方的爆雷の嵐が通り過ぎるのをジットガマンの忍の一字しかないのです。

ところがこの常識を覆す快挙を回天がなし遂げたのであります。

 

小生等より一週間後、大津島基地を出撃した轟隊イ三六潜はマリアナ洋上で大型タンカーに突入していった隊長池渕中尉艇を

観測中に敵艦に発見され、二隻の駆逐艦の百数十発の爆雷攻撃を受け、数時間に及ぶ回避行動で辛うじて沈没は免れたものの、

艦と回天の損傷も可成りあり、これ以上爆雷を浴び続ければ、傷口は拡大し沈没は決定的であります。

ここに至って拒みつづけていた隊員の進言を許可し、運転可能な二基の回天が七十米の深海から断末魔の母港を発進、

今までわがもの顔で爆雷を投下していた敵艦に突入していった。正に攻守が逆転した。

三六潜の聴音機から回天と敵艦のスクリュー音は遠ざかり、母港は虎口を脱したのである。

約二十分後、四、五発の爆雷音が聞えた直後に、「グワーンッ」 と爆発音が海中にあえぐイ三六潜をゆさぶった。

身を捨てて母港を救った久家少尉、柳谷一飛曹の快挙に対し、艦長以下乗組員は感激のあまり、

爆発音の方向に泣きながら合掌したという。

その十日程前に小生等のイ三六三潜も沖縄〜サイパン中間点で、同じ様な危機に遭遇した。強行発進を申し入れたが、

艦長は「ワシの操艦の腕を信じて呉れ」と許可してくれなかった。

そして三日二晩にわたる空海からの制圧攻撃を見事に脱出したが、敵も警戒したのか、その後会敵の機会に恵まれず、

空しく帰投、八月再度多聞隊として同艦で出撃するも敗戦の報を聞き、又々、生き恥をさらす結末となってしまった。

この経緯については、冒頭に記した記念誌に掲載されているが、詳細は、又の機会に譲りたいと思う。

 

ともあれ、今回のテレビに出演しそのビデオを見るにつけ、日英の最も鮮明な違いは、兵器の性能の相違もさること乍ら、

読者諸兄も夙にお解りの様に「人の命の重さ」の違いであります。

『彼は生還を考え、我は生還を期せず』であります。

戦いには遂に敗れた、されど散華せし回天搭乗員は一四四柱、回天作戦に参加し還らざる潜水艦八隻、輸送艦一隻、

その乗員九七一柱、白龍隊(沖縄進出)の基地隊員一一九柱の英霊に、ご冥福を祈りながらこの項を終ります。

なお、この一文執筆にあたり関西特潜会世話人・水間嘉典氏、全国回天会事務局長・河崎春美氏(お二人とも奈良空十三期)の

資料提供及びご助言を戴きました。

合掌

 

附記 BBC放送の記者の言によれば、NHKと放送権について交渉中との事であったが、その後の経過は連絡がありまごせん。

希望があれば、ダビングテープをお貸し致します。

また、昨年末このTVを一冊の単行本にしたものを送って参りました。

 

久保 吉輝

更新日:2007/10/13