甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第23号/平成 7年

久保 吉輝

奈良空−回天 (光)−轟隊(伊363)−回天多聞隊(伊363)

「奈良空寸描A」

 

建前と本音

奈良空に入隊して一ケ月後に初めて迎えた新年、赤飯と澄し汁に切り餅の奇妙な雑煮を喰べている内に、

今頃は丸餅と大根、人参、里芋とすべて丸ずくしの白味噌雑煮で、みんな祝っているのだろうか。

両親、兄弟、家族の事共あれこれと想い出されてならなかった。

それから半月程したある日、兵舎の衛兵所横の掲示板を覗きこんだら詳しい文面は忘れたが、

「海兵・海機の部内受験希望者は申し出よ」と云う趣旨の貼紙だった。班内の二、三人と相談した末「滑って元々や」と一決、

ジャンケンで負けた小生が恐る恐る班長室で班長に申し出ると心配していた事態となった。

「貴様は此処が不足か、いやいや予科練に来たのか。この時局を何と心得ておるのか!!」等々、筋違いとも思える罵声が

同室の班長連中からも浴せられた。

「兼ねてよりの親の希望でもありましたので申し出たまでです。特に他意はありません」と弁明するも、

「この重大な戦局に、何たる不心得者メが!!」と、バットの五、六本も頂戴して退散した。

「叩かなあかんもんなら、始から掲示なんかすな!!」と腹の中で怒鳴りながら、尻をさすっていた次第。

この種の掲示は昔からの慣例で、当初は人材発掘の為だったのだろうが、今ではイビリの種になっていたのだ。

マンマと嵌った自分を自嘲しながら、これから、こんな手に乗るもんか、徹底的に要領よくやったるぞ。

「面従腹背」を心に誓った。

矢っ張り親の意見とナスどの花は千に一つのアダ(無駄)はなかった。

 

海軍でよかったなア

ヒョンな事情で仲良くなった班長室付の清水上水の推薦で、分隊の大工係助手を務める事となった。

ある日の陸戦教課の午後、彼と天理教の法被(しるしぼんてん)を着たオッサンと小生は公用腕章を着け、大八車を引っ張って

ゴロゴロと丹波市のイソノカミ町をぬけて石上神宮近くの竹薮へ、太い孟宗竹を二十本程積んで帰隊、早速その青竹でダテ

(秋の田圃でお馴染みの稲束乾燥用の柵)を製作し、分隊内の空き部屋に設置した。

即席の銃架である。

数日後、トラックで重たい頑丈な木箱が運ばれて来た。

開けると、油紙で丁寧に包まれた新品の小銃である。

中学の教練で使った三八式や村田銃と比べて大分短い。ゴンボ剣もない。

それもその筈で銃口に折りたたみ式の剣が付いた騎兵銃である。菊の紋章がキレイに刻印されたピカピカの新品である。

造ったばかりの青竹銃架に向い合せに二百五十丁程並べ、五、六人で掃除し、ヤレヤレ作業終り。

と思った途端、ガラガッチャン、滑りやすい青竹のために、五十丁程が見事に将棋倒しに床に転がった。

皆んなの顔がサット青竹よりも青くなった。

陸軍なら一丁倒しても重営倉と聞いていたのに、纏めて五十丁では、・・・・・・

コラ一大事と、あわてて元に戻そぅとするが、滑って仲々並べられない。

拍子の悪い事に、物音で馳け込んで来たのが、陸戦担当、東北出身現役の佐藤兵曹、「ドーシタ」 の大声で、一同直立不動。

転末を説明する間もなく、大きな拳でポカポカ二、三発、転がっている銃の上に倒れそうになった。

「もっと丁寧に並べとけ!!」「お前ら海軍でよかったなアー」。

大声で怒鳴って行ってしまった。

問題の新品銃も三月も経たぬ内に陸軍さんがトラックでお迎えに来た。

古毛布で巻き木箱に入れて、大事そうに持って帰ってしまった。

代りに見掛た事のない中古の銃を乱暴に積み上げていった。

どうやらシソガポールで捕虜から召し上げたチエッコ銃だとの事であった。

吾々も、この方が取扱いにも気兼ねがいらないし、ゴンケツを頂載せずに済みそうだ。

以後陸戦訓練にはこの銃が使用されていた。

中学時代い大阪の学校から泉州の狐で有名な信太山陸軍演習場(現在陸自信太山駐屯地)まで、丸一日掛りで

鉄砲かついで行軍、ご丁寧に背嚢にレンガを二枚も入れられた、苦い苦い経験があるので、海軍を選んだ小生であった。

奈良空では、大工係のお蔭で陸戦免除の上、十九年の海軍記念日に行われた御堂筋行進以外は、復員するまで

一度も銃を担ぐ機会がなかった。

正に 「海軍でよかったなアー!!

 

昭和十九年の海軍記念日に行われた御堂筋行進

 

久保 吉輝

更新日:2007/10/13