甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第17号/平成 3年

北奥 博男

奈良空−大竹潜水学校−海龍

「 嵐山美術館に眠る引揚げ海龍の爆装秘話」

 

●沈没海龍の発見

実戦用海龍が発見されたのは、戦後三十二年を経た昭和五十二年の秋、伊豆半島東海岸にある網代湾内

水深二十四米の海底であった。

当時新聞に写真入りで報道されたので記憶されている方も多いと思うが網代湾内に沈座している海龍を発見したのは、

神戸市内でアクアラングクラブを組織し、その会長である池原義明氏 (元海龍搭乗員)であった。

この海龍を引揚げるため同氏は関係諸方面を駆けめぐり、ようやくにして昭和五十三年五月二十七日の旧海軍記念日に

浮上させ、鎮魂式を挙行するまでにこぎつけた。

その鎮魂式に参列せよとの要請をうけ、海龍と再会出来るという夢の様な叉恋人に会う様な想いで新幹線の車中の人となった。

 

●車中における回想

私も奈良空から特攻志願をして、広島県の大竹・神奈川県の横須賀と海龍搭乗員の講習をうけ昭和二十年六月米軍の

本土上陸作戦に備えて新しく編成された第一特攻戦隊第十五突撃隊第四菊水隊の海龍搭乗員として

静岡県の伊豆本島西側、江の浦基地に派遣されることになった。

私は艇附(操縦)であり艇長は奈良空出身の羽柴保蔵氏(故人)であった。

昭和二十年六月初旬四艇の海龍が基地回航のため横須賀軍港を出港した。

軍楽隊の吹奏する軍艦マーチ、戦隊司令はじめ特攻長、基地搭乗員等々あまたの戦友の「帽振れ」の見送りに

勇躍海龍隊初の試みによる単独航海の壮途についた。

 

「合戦準備」・・・・・・「準備よし」

「前進微速」・・・・・・「前進微速」

「微速三〇」

 ∃〜ソロー       ヨーソロー

「宜候」・・・・・・「宜候」

 

艇は静かにブイを離れた。

東京湾を一歩出ると敵潜水艦は遊戈し、空には敵艦載機がいつ襲撃してくるかわからないという戦況であった。

四艇の海龍には、出撃という名にふさわしく全て頭部に爆薬六百瓩を装填しての回航であった。

(この事実が後日引揚げた海龍の爆装への疑念であった)。

この回航にあって、沈座している海龍が発見された網代湾には生涯忘れ去る事の出きない思い出がある。

寄港した網代湾を深夜に出港し初島沖にかゝったとき、「ドオーン」という大きな衝撃音とともに僚艇と接触した。

間髪を入れず「給排気弁閉め」と怒鳴ったが、艇長が弁の桿扞に飛びつくのが一瞬遅く給排気弁から浸水してきた。

必死の作業で給排気弁は閉めたが艇は沈み始めた。

深度五・七・十・・・三十と沈み、ようやく深度四〇で海底に沈座した。

先輩の潜水艦乗りのこと、訓練中に殉死した同期生の事が脳裏をかすめ自分もこゝで生涯を閉じるものと覚悟したが、

九死に一生を得て、今こゝに新幹線車中にある。

この時の状況は又機会をみて記述してみたい。

 

●鎮魂式

網代湾海底からクレーン船のワイヤーに吊り上げられて海龍が揚ってきた。

貝殻と海藻が隙間なく付着し無残な姿といおうか、無念の塊りにも見えた。

幻しの潜航艇として実戦の海龍は現存していない。

唯一艇の海龍が今こゝに揚る。

静かに波止の台座に安置された。

鎮魂式は元搭乗員の同期生をはじめ、同じく予科練の同期生で結成されている「宝空合」や「東京甲飛会」有志の支援のもとに、

地元各団体の参列を得て厳粛且つ整然と進行し、池原氏の祭文奉上、京都嵐山美術館新藤館長の挨拶があり

参会者の献花と続き、最後に追悼の海軍ラッパ吹奏により無事儀式は終了した。

 

●検証

海龍の外観は特眼鏡(潜望鏡)が折損して中ばより喪失、司令塔の無線塔は完全になくなり儀装部分も海水腐蝕により

大部分が欠損していた。

しかし原型は九粍外鈑のためくずれずにあり、九一式魚雷二本の射出筒のレール跡も確認できた。

尾部縦舵附近にロケット砲(米機)による損傷でポッカリロを開けていた。

そこで艇内に入ることとした。

艇附室は台座のみであった。

操縦桿・踏棒(方向舵)・計器類等の周辺装置は破損していない。

艇長席も特眼鏡のうしろ、一段下に見えて異常はない。

この艇の羅針儀は磁気羅針儀である、

当時は既に転輪羅針儀の部品不足で実戦海龍も磁気羅針儀を搭載していたものである。

私の見たところ、この艇は正に実戦海龍であり頭部には爆装の危虞があった。

この危虞について、池原氏はじめ同期の参列者にも話したが、実戦海龍搭乗者が私のほかには居合せてなく半信半疑であった。

しかも引揚げについて、海上自衛隊幕僚本部と地元熱海警察署長の許可を得、海幕の協力を願っての引揚げであるから

その心配はないとの返事であった。

そこで引揚げ後の措置を引受けられている新藤美術館長に対し、艇は、頭部と本体部・後部の三部分に解体できる旨を

説明し、嵐山において解体整備される際接断にあたっては絶対に熔接機を用いる事なく鋲・ビス類を外す様呉々もお願いして

大阪に帰った。

帰阪後この危虞を海上自衛隊阪神基地隊副長として着任していた中島三郎氏 (同期生で元鮫龍塔乗員)に

海龍引揚げの話題の中で話しておいた。

 

●爆装の事実

昭和五十四年夏、中島一佐より「海龍爆装の真疑についてどうも気にかゝる。

部下に戦史を研究している者がいるが、彼の防衛戦史室における調査では爆装の事実は無いと分っている。

しかし実戦海龍の搭乗員である君の話しには信ずべきものがあるので、この度、司令の許可を得て内密に調査したいので

参考人として是非出席願い度い」と電話による要請があった。

その日は、舞鶴及び明野の爆発物処理班と京都府嘗及び阪神基地隊の四者立会いで調査が始まった。

阪神基地隊の某三佐は海龍(SS金物と称していた艇)の大きな設計書を広げて前頭部を指差し、

「燃料室と記載されており爆装室ではありません」と説明された。

私はその設計図を一目見るなり、これは初期の海龍でSS金物と云われた前頭部の突ったものである事がわかった。

SS金物は確かに前部燃料室となっているが、その後戦局の切迫により魚雷攻撃以外に出撃艇全艇に爆装し

人間魚雷としての機能をつけて、前進基地に配置されたものである。

この旨を係官に説明したが納得されない様であった。

併しながら阪神基地隊としても兎角爆装しているものとして爆発物処理班により解体調査が進められた。

問題の頭部は、蓋のビスを防錆剤に浸しいつでも開けられる状態になっていた。

やがてビスが軽やかに外され、縦二〇糎、横一〇糎の蓋が取除かれた。

内部には果して真黒な防湿剤に守られたNT火薬が姿を見せている。こゝに海龍の爆装は現実のものとなった。

処理班々長は興奮を抑えながら「間違いありません、むしろニトロが分離しかけ当時より危い状態です」と報告された。

併し三十三年間海中にあり今平和な時代に出現したこの爆薬らしき物を見てまだ処理班以外の立会者は半信半疑である。

班長がドライバーの先で耳掻数杯分ぐらいの火薬を掌にとり、数メートル離れてコンクリートの床に落し点火した。

シューと黒煙が二l二〇米立ち昇り火薬特有の異臭が鼻をついた。

「総員待避」やっと六〇〇瓩の爆発が如何なるものか呑みこめた様だった。

この様にして海龍頭部の爆装は事実となったが、引揚げの許可や搬送の許可等の責任問題もある事から、

極秘裡に阪神基地隊によってその日の深夜紀淡海峡の沖合深く海中投棄された由。

現在嵐山に保存された唯一艇の実戦海龍は残念ながら頭部のみは後で製作取り付けたものである。

 

網代湾から引き揚げられる海龍

 

    

 

北奥 博男

更新日:2007/10/12