甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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昭和63年 4月10日

甲飛十三期殉國之碑 第 十五回慰霊大祭

祭典委員長 祭文

 

祭典委員長 汐見  健

桜花爛漫と咲き競うこの佳き日、ここに第十三期海軍甲種飛行予科練習生戦没者第十五回慰霊大祭を

挙行するに当り、ここ建国の聖地畝傍の森の若桜友苑に鎮まります一千五柱の御霊に、同期生を代表して

謹んで哀悼の誠を捧げ慰霊の言葉を申上げます。

 

今日の私は、いつもの姿とは違い本日の祭典委員長と言う大役を仰せつかり卿等の前にたたずみました。

本日は、ご覧の如く多数のご来賓、同窓生及び瑞鶴会や地元の方々のご参列を賜わり、

又こんなに多くの同期生が全国津々浦々から馳せ参じてくれました。そしてご遺族のご両親、ご兄弟が

卿等に会いたいと全国各地より参られました。

正に光蔭矢の如く、早や四十五年の歳月が流れましたが、昭和十八年卿等と共に「七ツ釦は桜に錨」と栄光の予科練

を憧れ、大空に翔だく日を夢見て入隊。

然し私達紅顔可憐な少年を待ち受けていたのは苛酷なる猛訓練と死を恐れぬ教育の毎日でありました。

既に戦局は日々緊迫、悪化の一途を辿り、遂に我等甲飛十三期生も帝国海軍最後の砦として戦列に参加。

空中特攻にはた又水中水上特攻にと必死必中の特攻新兵器に志願し、日夜激しい訓練を重ね敵艦に突入せよとの

命を受けたのであります。

特攻出撃にて戦死された者、又訓練中にあるいは病魔に倒れ、十八歳の若き命を捧げられました。

当時、「人生二十年」否十八の生涯とは我等の相言葉であり、若き命を散らす事が男子の誇りであるとさえ信じ、

両親に先立つ不孝を詫びながら我れ先にと特攻に参加し、心の雲り一つない純情な少年が次々と日本の平和を

念じつつ散って行ったのであります。

幸か不幸か紙一重の差で生き残った我々同期生も、すでに六十路の坂を越し、ふと立ち止って過ぎし日を振り返る時、

人生の一コマだった予科練当時のこの体験は私達に偉大なるエネルギーを培ってくれました。

それは戦後の幾多の苦難を乗り越え、そしてその力は今日迄の我々を支えてくれたのであります。

私は、毎日この若桜友苑に立寄り、畝傍の山を望む美しい芝生に嬉々として遊ぶ子供達や、親子連れの楽しい姿を見る時に、

この平和の続く美しい国土と経済的にも大国と生れ変った日本、これはかの大戦で卿等が若き生命を国に捧げて

散って征った尊い犠牲によるものである事を決して忘れるものではありません。

「残る桜も散る桜」と残った桜もボツボツ散りはじめ、意気旺んなれども身体これに伴なわずと、

この言葉がだんだんと身にしみる年齢となって参りました。

我々十三期生が全員死出の旅路についた後も、青春の血を燃やし散華せし卿等の勲と私達生存者の熱意と団結によって

建立されたこの殉国之碑と若桜友苑は、橿原神宮様はじめ地元の万々の手によって、この偉大なる功績を後世に

伝え継がれて行く事を念願するものであります。

若桜友苑に鎮まれる甲飛十三期生の御霊よ、我々は来年もそして再来年もと、いついつ迄も命のある限り桜の花咲く春には、

全国より戦友相集い卿等の栄光を永久に伝え慰霊の儀を続けたいと願うものであります。 

終りに臨み重ねて本日ご参列のご来賓、ご遺族及び諸先輩、同期生心を合せて卿等のご冥福をお祈り申し上げます。

安らかにお眠り下さい。

 

朗読された遺書

更新日:2007/11/04