甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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平成12年 4月 9日

甲飛十三期殉國之碑 第 二十七回慰霊例祭

祭典委員長 祭文

 

祭典委員長 久保 吉輝

爛漫の桜花咲き匂う、此処建国の聖地橿原神宮の神域、若桜友苑に斎き祀る一千四柱の英霊に謹んで申し上げます。

 

憶えば、驚異的な大戦果で幕を開けた大東亜戦争も敵の物量に劣勢を強いられ始めた昭和十八年に到り、

国家存亡の危機を感じた吾々は、学窓に在るを潔ぎよしとせず第十三期海軍甲種飛行予科練習生として入隊、

其の数実に二万八千名は、六つの航空隊に分散して、怨敵撃滅を誓って飛行機搭乗員を目指し、

日夜の猛訓練に励んだのであります。

然るに昭和十九年八月、土浦・奈良・滋賀・宝塚の四航空隊に於て必死必殺の飛行機に非ざる新兵器搭乗員の

志願者募集が極秘裡に行はれ、第一次、第二次を通じて約四千名余が選抜された。

憧れの翼を捨てて戦局を一挙に挽回せんと、新兵器に身を投じたのであります。

即ち、水上は震洋、水中は回天・蚊龍・海龍であります。

特別攻撃隊として散華されし諸兄。

作戦を目前にして猛訓練中に又転戦移動中に、或いは病魔に犯され志半ばにして無念にも散った兄らの心情を思うとき、

痛恨無常、胸かきむしる思いは、生涯消える事はありません。

私は十九年九月一日、回天隊開隊の日に土浦空一〇〇名、奈良空二五〇名の同期生と共に第一次下士官搭乗員を

命じられ、第一特別基地隊付きとなりました。

多くの事故及び其の犠牲者を乗り越え昼夜を分たぬ猛訓練の結果、早くも十二月には吾等同期二万八千名の先陣を

切って三枝 直二飛曹・森 稔二飛菅の両君は、回天特別攻撃隊金剛隊の一員として母艦伊号第五十八潜水艦にて

大津島基地を出撃、二十一年一月十二日、グワム島アブラ港在泊の敵艦に肉弾突入、戦死されました。

以来十数次に亘る全ての洋上回天特攻作戦に於て、吾々十三期生は出撃搭乗員の中核として参加し、

延べ一四六名の出撃者中六十名を占め、戦死・殉職者一〇六名中、四十名を数える奮戦をしたのであります。

 

打ち寄する黒船の波打ち破る 回天の勇士雄々しくもあり悲し

 

本土決戦が叫ばれた二十年六月以降、米軍上陸予想地点に展開した突撃隊に配属された出撃搭乗員の七五%は

吾々十三期生が待機していたのであります。

私も二十年五月二十八日、伊号第三六三潜水艦にて轟隊として出撃、作戦一ケ月に及ぶも、荒天暗夜等の悪条件に

はばまれ突入の好機を得ず、空しく基地に帰投したのに続き、八月八日多聞隊として再度出撃致しましたが、

ソ聯参戦による作戦海面変更の為転戦中に終戦の報を聞き、又々生き恥を晒す結末となりました。

 

送られし吾は君をば送りつゝ 再び征きて残るぞ口惜し

 

戦後の混乱せる世情に煩悶苦悩し幾度か死を意識した事もありましたが、賜びし命を如何に有意義に処するか、

暗中模索の末、四十二才の大厄の年に至り、蕾のままに散りし同期千四柱の御霊の生命を継ぐ事こそ、

残りし者の大役なりと翻然と悟り、次の世代の祖国を担う少年の教化と、幼き頃の夢を込めて少年硬式野球の

指導育成に尽力し三十三年を経過しました。

その間育成せし選手総数千二百数十名、甲子園に出場せる者三十一名に達し、同期英霊の命と魂を継ぎ得た

ものと自負しております。

本日よりは、全ての役職を辞し、残る生涯を兄等の慰霊と顕彰に捧げる所存であります。

今世紀最後の慰霊祭に祭文奏上の栄誉を賜りし事に深謝し、在天の英霊、眠り永遠に安かれと祈念し

此処に慰霊の誠を捧げます。

 

朗読された遺書

更新日:2007/11/04